済州四・三 76周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

70周年関連重要文書

                                                                            
犠牲者追念式での追悼辞、犠牲者遺族会らによる米国政府への公開書簡など、70周年にあたって発表された重要な文書類をまとめました。

第70周年4・3犠牲者追念式 文在寅大統領追念辞
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4・3生存犠牲者と遺族のみなさま、済州道民のみなさま、
石垣ひとつ、落ちた椿の花ひとつ、痛哭の歳月が刻まれている済州で
「この地に春はあるのか」
みなさまは70年の間、問うてきました。
私は今日、みなさまに済州の春を告げたいと思います。
悲劇は長く、ただ風が吹いても涙が出るほどに痛みは深いものでしたが、
菜の花のように満開に、済州の春は咲き始めるでしょう。
みなさまが4・3を忘れることなく、みなさまと痛みを共にする方々がいて、
今日、私たちは沈黙の歳月から立ち上がり、こうして集うことができました。
渾身の力を尽くして4・3の痛恨と苦痛、真実を知らせてきた
生存犠牲者と遺族、済州道民に、大統領として、深い慰労と感謝の言葉を申し上げます。

尊敬する済州道民のみなさま、国民のみなさま、
70年前、ここ済州で無辜の良民が理念の名において犠牲になりました。
理念というものを知らずとも、泥棒も無く、乞食も無く、家の門も無く、ともに幸せに暮らしていた罪無き良民が、理由も分からぬまま虐殺されました。
1948年11月17日、済州道に戒厳令が宣布され、中山間村を中心に
焦土化作戦」が展開されました。
家族のうち一人でもいなければ「逃避者家族」という理由で殺されました。
中山間村の95%以上が焼き尽くされ、村の住民全体が虐殺されたところもあります。

1947年から1954年までに、当時の済州人口の10分の1にあたる3万人が亡くなったものと推定されます。
理念が引いた生と死の境界線は虐殺現場にのみあったのではありません。
一度に家族を失いながらも、「暴徒の家族」と言われないために息を潜めて生きなければなりませんでした。

苦痛は連座制によっても受け継がれました。
軍人になり公務員になって国のために働こうとする子どもの熱望を、
済州の親たちは自ら砕かなければなりませんでした。

4・3は済州の隅々にわだかまる苦痛でありましたが、
済州は、生きのびるために記憶を消さねばならない島になりました。
しかし、語ることのできない歳月の間、済州道民の心の中から真実は消えませんでした。
4・3を歴史に正しく位置づけるための涙ぐましい努力も絶えませんでした。

1960年4月27日、観徳亭広場で「忘れろ、黙っていろ」と迫る不義の権力に対し、済州の青年学生たちが立ち上がりました。
済州の中学生・高校生1,500人が、3・15不正選挙の糾弾とともに4・3の真実を叫びました。

その年、4月の春は、いくらもせずに5・16軍部勢力によって挫かれましたが、
真実を知らせようとする勇気は失せませんでした。
数多くの4・3団体が記憶の外にあった4・3を絶えず呼び戻しました。
済州4・3研究所、済州4・3道民連帯、済州民芸総など、多くの団体が4・3を抱きとめてきました。

4・3を記憶することが禁忌とされ、話すことさえ不穏視された時節、
4・3の苦痛を作品に刻み込み、忘却から私たちを呼び覚ましてくれた方々もいました。

維新独裁のピークだった1978年に発表された小説家・玄基榮(ヒョン・ギヨン)の「順伊おばさん」。
金石範(キム・ソクポム)作家の「鴉の死」と「火山島」。李山河(イ・サンハ)詩人の長篇叙事詩「漢拏山」。
3年間に50編の「4・3連作」を完成した姜堯培(カン・ヨベ)画伯の「椿散る」。
4・3を扱った最初のドキュメンタリー映画である趙成鳳(チョ・ソンボン)監督の「RED-HUNT」。
オ・ミョル監督の映画「チスル」。イム・フンスン監督の「ピニョム」と金東満(キム・ドンマン)監督の「タランシュイ窟の悲しい歌」。
故キム・ギョンユル監督の「終わらない歳月」。歌手・安致煥(アン・チファン)の歌「眠らない南の島」。
時には逮捕や投獄につながった芸術家たちの努力は、
4・3が単に過去の不幸な事件ではなく、現在を生きる私たちの話であることを教えてくれました。
ついに、私たちは4・3の真実を記憶しさらけ出すことが、
民主主義と平和、人権の道を開いてゆく過程であることを知るようになりました。

済州道民とともに長い間、4・3の痛みを記憶し、知らせてくれた方々がいたからこそ、
4・3は蘇りました。
国家暴力による、そのすべての苦痛と努力に対して、大統領として、
もう一度深くお詫びし、また深く感謝申し上げます。

4・3生存犠牲者と遺族のみなさま、国民のみなさま、
民主主義の勝利が真実へと進む道を開きました。
2000年、金大中政府は、4・3真相究明特別法を制定し、4・3委員会をつくりました。
盧武鉉大統領は、大統領として初めて、4・3に対する国家の責任を認め、慰霊祭に参席し、犠牲者と遺族、済州道民に謝罪しました。

私は今日、その土台の上に、4・3の完全なる解決に向けて揺るぎなく前進することを約束します。

これ以上4・3の真相究明と名誉回復が中断されたり後退することはないでしょう。
それとともに、4・3の真実はいかなる勢力も否定することのできない明白な歴史の事実としての地位を確立したということを宣言します。

国家権力が加えた暴力の真相をまともに明らかにし、犠牲になった方々の無念を晴らし、
名誉を回復するようにいたします。
このために、遺骸発掘事業も悔いの残らぬよう最後まで継続していきます。
遺族や生存犠牲者の傷や痛みを治癒するための政府次元の措置に最善を尽くす一方、賠償・補償や国家トラウマセンター設立などの立法が必要な事項は国会と積極的に協議します。
4・3の完全なる解決こそ、済州道民と国民みなが望む和解と統合、平和と人権の確固たる礎となるでしょう。

済州道民のみなさま、国民のみなさま、
いま済州は、そのあらゆる痛みから立ち上がり、平和と生命の地として復活しています。
私たちは今日、4・3英霊の前で、平和と共生は、理念ではなく、ただ真実の上にのみ成り立ちうるという事実を再び確認しています。

左と右の激しい対立が残酷な歴史の悲劇を生みましたが、4・3犠牲者と済州道民は、
理念がつくりだした不信や憎悪を乗り越えました。

故オ・チャンギさんは、4・3当時、軍・警察の銃により負傷しましたが、朝鮮戦争が勃発すると「海兵隊3期」として志願入隊し、仁川上陸作戦に参戦しました。
両親と妻、そして妻の母親と妹をことごとく失った故キム・テセンさんは愛国の血書を書いて軍隊に志願しました。

4・3で「アカ」と決めつけられた青年たちが死を賭して祖国を守りました。
理念はただ虐殺を正当化する名分に過ぎませんでした。
済州道民は和解と赦しによって、理念がつくりだした悲劇に打ち克ちました。

済州の下貴里には護国英霊碑と4・3犠牲者慰霊碑を一ヶ所に集めて慰霊檀がつくられました。
「みな犠牲者なのだから、みな容赦するという意志」で碑を建てました。
2013年には、最も葛藤の大きかった4・3遺族会と済州警友会が条件無しの和解を宣言しました。

済州道民が結び始めた和解の手は、いま全国民のものとならなければなりません。
私は今日、この席で国民に訴えます。

いまなお4・3の真実に目を背ける人びとがいます。
いまなお古い理念の屈折した目で4・3を見る人びとがいます。
いまなお大韓民国には古い理念がつくり出した憎悪や敵対の言葉が溢れかえっています。

いまや私たちは痛ましい歴史を直視できなければなりません。
不幸な歴史を直視することは、国と国との間にのみ必要なことではありません。

私たち自らも4・3を直視できなければなりません。
古い理念の枠に思考を閉じ込めることから抜け出すべきです。

いま大韓民国は、正義の保守と正義の進歩が、
「正義」で競争すべき国にならなければなりません。
公正な保守と公正な進歩が、「公正」をもって評価される時代でなければなりません。

正義でなく、公正でなければ、保守であれ進歩であれ、
どんな旗であれ、国民のためのものになりえないでしょう。
暮らしのあらゆるところで、理念が落とした敵対の影を取り払い、
人間の尊さを花咲かせられるよう、みながともに努力していきましょう。
それが今日、済州のオルムが私たちに聞かせてくれる話です。

4・3生存犠牲者と遺族のみなさま、国民のみなさま、
4・3の真相究明は、地域を越えて、不幸な過去を反省し、人類の普遍価値を取り戻すことです。
4・3の名誉回復は、和解と共生、平和と人権へ進みゆく私たちの未来です。

済州は深い傷痕のなかにあっても、この70年間、平和と人権の価値を叫んできました。
いま、その価値は朝鮮半島の平和と共存につながり、
人類全体に向けた平和のメッセージとして伝えられるでしょう。

恒久的な平和と人権に向けた4・3の熱望は、決して眠らないでしょう。
それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。
今日の追悼式が、4・3英霊と犠牲者に慰めとなり、
私たち国民にとっては新たな歴史の出発点となることを願います。

みなさま、
「済州に春が来ています。」

ありがとうございます。

2018年4月3日 大韓民国大統領 文在寅

(村上尚子訳)

原文はこちら(リンク)
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祖先の方々を哀悼しながら 玄基榮(作家)

寒く憂鬱な冬は過ぎ去り、いまや春です。新しい命が芽生える季節が始まりました。

野原の入口、畑の畦、丘に、ふるい草むらの中から新芽が吹きでています。海の光も青みを増し、青海苔もワカメの色合いもより美しくなりました。

そこかしこの野原に黄色い菜の花が群れをなして咲いています。喊声のように一斉に咲いた、あの菜の花の群生を見ながら、わたしたちは南北分断となる単独政府に反対し、統一国家を叫んだ70年前のあの喊声と、凄絶な受難を思い出してみます。

今日、わたしたちは70年前に非道な銃剣によって死んでいった、無数の悲痛な祖先たちを追悼し祈念するために、この場に集まりました。余りにも悔しい死であったため、祖先たちは未だに極楽浄土にも往くことができず、この世で風に吹かれ、雲につられて群れをなして彷徨しているように感じます。これは、4・3の祖先たちを哀悼するわたしたちの真心が、未だに足りないからでありましょう。

麦畑の麦が刈り取られるように、あっさり倒れていった無数の寃魂、この悲しみと怨恨、怒りを慰めるためにわたしたちは、ここに集まりました。たんに、若いという理由だけで死ななければならなかった、人生の三分の一も生きられず、前途洋々たる未来のすべての可能性が奪われたまま、倒れていった.無数の若者たち、なぜ死ななければならないのか、その理由も知らないまま死んでいったハルモニ、ハラボジ、オモニや子どもたち、乳飲み子の悲しい霊魂を慰めるために、わたしたちはここに来ました。そして、幸いにして生き残ったとしても抑圧と恐怖のなかで、まるで死人のように生きていかなければならない、泣きたくても泣けなかった歳月を生きてきた被害の生存者たち、無数の遺骸が広がっていた畑で、生涯血の匂いを嗅ぎながら畑を耕し、雨が降ると拷問で得た古い傷跡が疼き、悲痛なる思いを酒で癒した人たちの悲しみに思いを馳せるため、わたしたちはここに来ました。

亡くなった人たちの寃魂を慰める道は、わたしたちがこの寃魂、この悲しみを忘れないことです。4・3の歴史的記憶を呼び覚まし、絶え間なく刻むこと、代を継いで未体験世代が、この記憶を蘇らせることが重要です。

ユダヤ人への大虐殺が行われたアウシュビッツ収容所の入口のエピグラムには次のように書かれています。「アウシュビッツよりなお恐ろしいことは、唯一つ、人類がそれを忘れることだ」。不幸な過去を忘却する者は、個人であっても、社会であっても、その過去を繰り返す運命を辿ることでしょう。このエピグラムのアウシュビッツを4・3に入れ替えて言ってみましょう。

しかし4・3の寃魂をきちんと鎮魂しようとすれば、哀悼と祈念式だけでは足りないのです。

かれらは今、わたしたちに4・3の悲しみに留まるだけではなく、哀悼と祈念式だけを行うのではなく、前に進んで行けといっています。この犠牲が無駄になることがないようにしろ、と言っています。
そうです。4.3の寃魂は哀悼や祈念式だけでは鎮魂されないのです。

あの時、亡くなった祖先たちをきちんと鎮魂しようとすれば、分断反対、統一国家を願って抗争したあの人たちの思いを、大韓民国の歴史に正しく刻まなければならないでしょう。

4・3はコインの表裏のように受難と抗争が表裏一体をなしています。ところが、これまでの4・3に関する公式的な論議は、韓国社会に蔓延する極右反共主義のために「抗争」の部分から目を逸らしたまま、ほとんど「受難」の部分に限って行ってきました。

少し、考えて見ましょう。解放当時の全民族的な先決課題は、解放と同時に引かれた38度線の撤廃と日帝の残滓の一掃でした。しかし、情況は解放ではなく、新しい占領だったのです。新しい国家を建設しようとすると、南北を一つにする統一政府を建設することが正しく、南北それぞれに単独政府が建てられてはならない、とする反対世論が全国に巻き起こったのです。

だから、済州島民に罪があるとすれば、全国民が反対する単独政府樹立を、最も積極的に反対したという罪でしかないのです。これが、なぜ死に値する罪だといえましょうか。考えてみてください。今、この社会で繰り広げられているほとんどすべての矛盾や問題は、南北分断から引き起こされたものではないでしょうか。4・3抗争の大義名分は正しかったのです。

ゆえに、4・3の祖先たちは単純な犠牲者ではなく、堂々たる歴史の主体として、歴史に記録されることが正しいのです。このようにして、4・3抗争が歴史に正しく位置づけられた時、はじめて4・3の寃魂たちは心安らかに鎮魂されることでしょう。

済州4・3は大韓民国の歴史です。

(高正子訳)

原文はこちら(リンク)
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第70周年4・3犠牲者追念式 済州4・3犠牲者遺族会・梁閏京会長挨拶
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 季節を違えることなく4月が巡り、菜の花も咲きました。春になれば、私たち遺族は希望を抱き追念式に参席しましたが、失望と怒りを抱いて帰りました。
 尊敬する国民の皆さん
 70年前、この地済州に吹き寄せた4・3の悲劇は、あまりにも多くのものを奪ってしまいました。思想と理念の縄に縛りつけられたまま、訳もなく道民30万人中3万人が国家権力により惨たらしく虐殺され、家と村が火に焼かれ、共同体が完全に破壊されました。国民を守らなければならない国家が、国民の生命と財産そして人権を、ここまで踏みにじって良いのかと問いたい。ここ済州も大韓民国であり、大韓民国国民です。
 今日この場所には、あの残酷な現場にいらした未亡人と生存犠牲者、お年を召された遺族の方たちが、最後になるかもしれない辛い歩みを共にして下さっています。この方たちも大韓民国の父親であり母親でいらっしゃいます。この方たちのことを、どうして無視できるでしょうか。この方たちに、ほんの少しばかりでも慰めをさしあげ、70年間の恨(ハン)、心のわだかまりを減らしてさしあげなければなりません。

 尊敬する大統領
 多くの課題のなかでも、4・3を国政100大課題に採択してくださって4・3中央委員会が開かれ、犠牲者と遺族追加申告が再びできるようにしてくださり、どれほど感謝したか分かりません。
 そして昨年4月18日、ここ平和公園を訪問してくださり「済州4・3はいまだに涙が流れている」とおっしゃり、「民主政府は、することができる」とおっしゃいました。真相究明と国家次元の賠償補償をふくめた完全なる名誉回復を約束され、国家の責任だとおっしゃいました。
 また昨年の大統領選挙当時、各党の大統領選候補者の方々も、そろって特別法改定をふくむ4・3解決を約束されました。それで私たち遺家族と道民は、今日を指折り数えて待ってきました。済州4・3特別法が制定されて18年が経ちました。4・3の未解決課題を解決するためには、特別法改定が必ず前提とされなければならず、特別法改定なくしては一歩たりとも進むことができないという切迫感があります。私たちには時間的余裕がないということを、皆さまはよくご存知ではありませんか? 国家の立場ではない被害者の立場から、その答えを探してくださることを心より訴え申し上げます。 尊敬する道民そして国民の皆さん! 済州4・3は大韓民国の歴史です。しかし、4・3について余りにも知らずにいます。済州の言葉で「속숨허라(ソクスムホラ)」、しゃべってはならないという意味です。しゃべってはいけないために、知らずにいるほかありませんでした。これからは、わが現代史の大きな悲劇について誰もがその真実を語ることができれば、と思います。

 私たちはいま真の名誉回復を実現させ、赦しと和解を通じて共に生きられるよう大きな転換点の契機にしようとしています。

 済州4・3の英霊たちよ!
私たちを残してこの世を去る時、どれほど胸痛む涙を流されたでしょうか?誰が、あの幼いものたちの面倒を見てくれるのか心配し、どれほど辛い想いで眼を閉じられたのでしょうか?
 今日ここでは、大統領ご夫妻と各政党指導部と多くの国民が、場を共にして下さっています。私たち全ての者は英霊にこうべを垂れ、平和と統一の大切さを噛みしめるでしょう。
 空にいらっしゃる4・3の英霊たちよ! 今は心に残る恨(ハン)を解き、われわれ子孫たちを見守ってくださりますように!

(鄭雅英訳) 

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公開書簡:4・3虐殺に対しアメリカ合衆国は謝罪し真相究明に動け

あなたたちは本当に知らないのか? 韓半島最南端に位置する平和だった済州島を全て血の色で染めたあの時を。

あなたたちは本当に忘れたのか? 70年前のある日、何の罪もない数あまたの済州民間人を連れ去り無残に虐殺したあの事件を。

あなたたちは本当に聞こえないのか? 赤い椿のような花冠となりポトリ、ポトリ、悲鳴に消えていった4・3の霊魂たちが泣き叫ぶ声を。

あなたたちは本当に見えないのか? 虐殺の狂風のなかで九死に一生を得て生き残った者たちと無念にも犠牲となった遺族たちの乾かない涙を。

済州島を血の色で染めたあの残酷な時間が、いつの間にか70年も流れた。4・3はアメリカ軍政が統治していた時期に発生した民間人大虐殺事件だ。アメリカ軍政とアメリカ軍事顧問団が実質的に作戦統制権を行使していた時期に、3万人を超える済州道民が無念にも息絶えた。当時済州道民10名のうち1名ずつが犠牲になった。戦争を除き、世界のどこでこれほどの大虐殺劇の繰り広げられたことがあったろうか?

「4・3大虐殺」に対する実質的な責任はアメリカにある。アメリカ軍政は解放直後、韓半島38度線以南に存在した実質的統治機構だった。アメリカ軍政は済州道を「思想が不純なアカの島」と罵倒し、済州の人々を弾圧した。

1948年4・3直後、アメリカ軍政はブラウン大佐を済州地区アメリカ軍司令官として派遣し、済州現地のすべての鎮圧作戦を指揮・統率した。ブラウン大佐は4・3当時、「原因には興味がない。私の使命は鎮圧のみ」として強行鎮圧策を指揮した。これはアメリカ軍政が4・3虐殺に直・間接的に介入したことを見せつける端的な事例だ。

これだけではない。アメリカ軍報告書には、1948年11月から済州島に対する焦土化作戦を通じ民間人を無慈悲に虐殺した国防警備隊第9連隊の強行鎮圧作戦を「成功的な作戦」と評価した。アメリカ軍政は焦土化作戦が遂行される間、偵察機を動員しただけでなく、討伐隊の武器と装備も積極的に支援した。アメリカ軍政が4・3虐殺の責任から決して自由ではあり得ない理由だ。はっきりと言うが、済州民衆を大量虐殺した責任は李承晩政府とアメリカ軍政にある。

しかし、本来責任を負わなければならないアメリア政府は、70年という長い時間が流れたにもかかわらず、今に至るまで傍観者的態度で一言も語らない。そうした間にも、4・3を全身で体験し苦痛の中で暮らさなければならなかった生存者たちは、大部分がこの世を去った。残った80〜90代の生存者たちも、この先に生きながらえる日々はいくらも残っていない。4・3の辛い傷跡は、今も癒されていない。

もう一度アメリカに問う。アメリカが本当に平和と人権を大切にする国家であるなら、本当に未来へと進もうというのなら、今からでも4・3虐殺の責任に対し誠実に答えなければならない。

アメリカ政府は、今こそ4・3の真実を語らなければならない。4・3虐殺に対する責任を認め、公式謝罪をしなければならない。さらに4・3当時、アメリア軍政とアメリカ軍事顧問団の役割に対する真の調査を積極的に進めなくてはならない。

去る2005年、国連総会で採択された「国際人権法の重大な違反行為と国際人道法の深刻な違反行為の被害者救済と補償に対する権利に関する基本原則とガイドライン」を根拠に、民間人虐殺に対し徹底して調査し、それに相応する処置を取らなければならない。

今一度われわれは70年前に消え去った3万の済州民衆の名によって、アメリカ政府の責任ある行動を強く求める。

済州4・3犠牲者遺族会
済州4・3 70周年記念事業委員会
済州4・3第70周年記念汎国民委員会

2018年4月7日

(鄭雅英訳)

原文はこちら(リンク)
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