済州四・三 76周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

対馬・済州慰霊祭に参加して

「70周年追悼済州四・三事件予備検束犠牲者対馬・済州慰霊祭」に参加して 梁優子

済州四・三による犠牲者の遺骸は、済州島にのみ存在しているのではありません。済州四・三当時、長崎県対馬市上県町佐護湾に、数百体の遺体が流れ着きました。海岸の約500メートルにわたって打ち上げられた遺体を地元の住民が手厚く埋葬してくれました。遺体の埋葬に携わった方々のご子息の一人が、ご尊父の遺志を受け継ぎ、海岸近くに供養塔を建て、盆や彼岸に供養をし続けてくれています。2007年に建てられたこの供養塔には次のよう刻まれています。

「古より対馬海峡は波高く往来に困難をきたしていた。近年、朝鮮戦争の戦火で犠牲になった老若男女の遺体が朝鮮半島より海峡の荒波にのってこの海岸に打ち寄せた。その数は数百に及ぶものであったという。その遺骸を亡父江藤光と島の人々が協力して海岸に埋葬した。哀れな異国の魂を鎮めてやりたいという亡父の遺志を受け継ぎここに供養塔を建立する。」

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慰霊クッの様子

去る9月16日 長崎県対馬佐護湾で「70周年追悼済州4・3事件予備検束犠牲者対馬・済州慰霊祭」が開催されました。主管は「済州4・3漢拏山の会」「済州チリモリ堂ヨンドゥンクッ保存会」、主催は慰霊祭実行委員会。参加者は、済州島からの遺族も含め約80名ほどでした。当日参加できなかった実行委員長の金時鍾さんは、次のようなメッセージをよせました。

「70周年追悼済州4・3事件予備検束犠牲者対馬・済州慰霊祭によせて、残暑とはいえ今なお気息が喘ぐほどの暑さを衝いて上対馬までお足を運んでくださった皆みなさまのご熱意に、流れ着いた多くの無念きわまる遺体の慰霊祭を提唱した者のひとりとして、深甚なる敬意と感謝を申し上げます。江藤幸治さまのご尊父が弔ってくださった何百体もの漂着遺体の多くは、対岸とも言っていい釜山あたりから海流に乗って打ち寄せられた、1950年前後の無残な虐殺死体です。その中には時期を同じくして済州海峡を漂ってきた四・三事件の、恨みつきない水死体も当然含まれていたものと推測されます。なぜなら済州海峡の海流は、対馬海峡で東西に分かれ日本本州北部沖合で合流する黒潮の分流、すなわち対馬暖流とつながっており、わが国韓国と対馬地政学的にも必然の交流を生ましめる歴史性を共有してきたつながりが、そこには働いているようにさえ思えてならないからです。1950年六月勃発した朝鮮戦争は、米ソ冷戦激化の口火ともなった南北朝鮮分断固定化の戦争でした。

当時の韓国政府はもともとトルーマン大統領下のアメリカが強引に実施した南朝鮮だけの単独選挙(48年5月)によって、極東アジアにおける反共の強力な橋頭保として現出した政権でした。その李承晩政権は朝鮮戦争を前後して拘束していた40数万人からの予備検束者を「赤狗」(共産主義者の狗)として公々然と虐殺粛清しました。済州島四・三事件はまさに、そのジェノサイド的虐殺の走りともなった惨劇だったのです。日韓親善の橋渡し役を歴史的に担ってきた友好の島対馬で、犠牲を強いられた水死者たちを追悼することはそのまま、植民地統治後の日韓の実態を省みる、更なる契機ともなっていくでしょう。

無念な漂着死体を弔ってくださったばかりか、ご尊父の遺志を受け継いで供養塔まで建立されて追善供養をつづけてくださっている江藤幸治さまに、威儀を正して改めて感謝申しあげます。同じ時刻、私もふかぶかと自宅で首を垂れています。合掌 2018年9月16日 金時鐘

60余年前、数百体の遺体が流れ着いた佐護湾の光景はどのようなものであったか、その遺体はどのような凄惨な状態であったか、その遺体を一体一体を埋葬し続けた住民は何を思っていたのか、私の想像など到底及ばない地獄絵がそこにはあったのだと思います。シンバンの語りと響き渡る楽器の音色、そして色鮮やかな衣装がつくりだした慰霊クッの時空間は、死者と生者をつなぎその魂を慰めたことと思います。慰霊クッをおえると、よく分からないけど心が洗われ体が軽くなったように感じました。対馬の住民が歴史を紡いでくれたからこそ、今につながりました。感謝します。

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