済州四・三 76周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

対馬で4・3慰霊祭開催(その2)

さる2019年9月29日に対馬で開催された済州4・3日韓合同慰霊祭に関する情報提供の続編です。慰霊祭での金時鐘さんの挨拶と、対馬を取材した済州CBSキリスト教放送)の映像記録へのリンクを紹介します。

正編の 対馬で4・3慰霊祭開催 もご参照下さい。

第3回済州島四・三事件犠牲者対馬・済州慰霊祭の金時鐘さんの主催者挨拶 梁優子

2019年9月29日、第三回対馬・済州慰霊祭が長崎県対馬市の佐護湾で開かれました。ますます悪化する日韓関係のあおりをうけ、比田勝港の観光客はすくなく、去年の賑わいは感じられませんでした。開催に至るまでにも、様々な困難があったと聞き及んでいます。追悼の心を一つにした人々は、国家間の関係悪化に動じることなく、日韓市民慰霊祭開催にむけ尽力されました。主催者の一人である金時鐘さんの主催者挨拶を紹介します。


日韓関係が民族的感情対立までいたろうとしている今このとき、民間交流の大切さに思いをいたして、海をこえて、第3回済州島四・三犠牲者対馬・済州慰霊祭にご参列下さっている宋承文会長をはじめとする遺族会の皆々さまに主催者の一人として深甚なる謝意と敬意を表します。

戦後といわれた太平洋戦争終結からだけでも、74年というとてつもない年月が流れてしまいました。戦前戦後の記憶はもはやないに等しいこの頃です。朝鮮戦争が始まった1950年前後して、対馬に流れ着いた数百体からの無念な水葬虐殺死体は、現にこうして供養塔まで建立されて上対馬の渚でざわざわと風音をたてています。朝鮮と日本の消しえない近現代史のひずみを、今に証しだててもいるのです。

この供養塔の前に佇めば、浮かばれない死者たちの霊が、私たちを海越えて引き合わせているかのような気さえします。本日の慰霊祭にわざわざご参列くださっている日本の心ある友人たちに申しあげるには気が退ける話ではありますが、済州島四・三事件も、朝鮮戦争前後して引き起こされた四十数万人からの予備検束者虐殺も、ひいては南北に分断された朝鮮半島の民族的悲劇さえも、元を糺せばかっての帝国日本の植民地統治に由来します。

ポツダム宣言受諾による日本の敗戦処理は、その最たるものでありました。日本に対する降伏勧告がなされたポツダム宣言は、終戦の年の1945年7月26日発せられました。ところが日本は国体護持(万世一系の現人神であらせられる天皇陛下がしろしめす国)の存続をめぐってもたついているうちに、広島、長崎に原爆を落とされました。降伏勧告をすぐさま受け入れていたなら東京・大阪の大空襲、硫黄島、沖縄、広島、長崎の大惨劇はなかったでしょうし、ソ連参戦による朝鮮半島北半分の占領もなくて、朝鮮半島の南北分断も当然、現出しませんでした。

済州島四・三事件で酸鼻を極める虐殺をほしいままにした警察幹部、討伐隊隊長クラスはみな大日本帝国軍人の将校だった者、または朝鮮総督府特高警察官であった者か、親日右翼の名だたる顔役であった者たちでありました。この供養塔は無念な死者を慰霊しているだけではなくて、かっての日本の贖罪の一端をも、海鳴りの中でさらしている記念碑的供養塔にさえなっているともいえます。

一家挙げて供養をたむけてくださっている慈しみ深い江藤様ご一家に威義を正して、感謝申し上げます。もともと対馬は善隣友好の大先達で「誠信の外交」誠をもって信を問う外交を、当時の朝鮮との間に切り開き、朝鮮通信使の仲立ちまでした雨森芳洲先生が対馬藩藩儒、藩儒とは殿様に儒学を講義もうしあげる役職、当時の知行として2百20石の知行を得ている大学者でありましたが、その「誠信の人倫」を説いた由緒深い島国です。その由来が、江藤さん一家にまで及んだものと確信します。

漂着した数百の無念の水葬虐殺死体にたむけられたこの供養塔は、死者の慰霊にとどまらず韓日の民心、民の心をほぐす慈しみの塔として、今に詣でる人びとが後を絶たなくなるでありましょう。私たちは、今日その道しるべをここに刻んでいます。思いのたけの思いをこめて合掌をささげます。ありがとうございます。

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対馬が抱いた済州4・3(済州CBS

対馬が抱いた済州4・3(2019/11/25)

YouTubeに付された解説の日本語訳】済州4・3当時、無念にも「アカ」とされ、済州沖で水葬された人びと。遺体は対馬暖流にのって、日本の対馬へ流れていきました。現地の人が遺体を収容し、今日まで供養しています。済州CBSキリスト教放送)取材陣が対馬の佐護湾地域を訪ね、その現場を取材しました。

対馬が抱いた済州4・3 2(2019/11/27)

YouTubeに付された解説の日本語訳】70余年前、済州4・3当時水葬された遺体は対馬暖流にのって、対馬の東側海岸まで流れていきました。済州CBSキリスト教放送)取材陣が東側海岸の村・小船越を訪ねました。

 

 

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