済州四・三 76周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

国連で4・3シンポジウム開催

ニューヨークの国連本部で、さる2019年6月20日(現地時間)に「済州4・3の真実、責任と和解」と題し、済州4・3に対するアメリカの責任を問う国際人権シンポジウムが開催されました。

シンポジウムは済州4・3平和財団の主管で、過去清算の世界的なモデル提示を目指し開かれました。今回はこれまで4・3についてあまり伝えてこなかったメディアが報道している点が特徴的です。

ここでは、歴史的なこの行事に関する韓国・北米での報道やレポートを整理し、紹介します。文字資料の原文はすべて朝鮮語ですが、FBに掲載された呉光現・在日本済州4・3犠牲者遺族会会長の日本語訳などを転載させていただきました。ありがとうございました。

【追記】国連の公式記録映像(UN Web TV)へのリンクを追加しました。(2019/12/22)

国連シンポジウム「人権と済州4・3:済州4・3、真実、責任、和解」(UN Web TV)

済州4・3、米国の責任を追及するシンポジウム、国連で開かれる【動画】(済州MBC「ニュースデスク済州」2019/06/21)

*動画中の2:27~3:06ごろに放映

ニュース原稿(日本語訳)

済州4・3に対するアメリカの責任を問う人権シンポジウムが、韓国時間で本日の明け方、米国の国連本部で開かれました。

「済州4・3の真実、責任と和解」をテーマに開かれたシンポジウムで、4・3生存犠牲者のコ・トンワン ハルモニは4・3の惨状を証言し、ブルース=カミングス シカゴ大客員教授とジョン=メリル博士は基調演説で、「済州4・3は米軍政の統制下で起こった出来事であり、米国が責任を負わなければならない」と主張しました。

今回のシンポジウムには現地のNGOと宗教団体なども参加し、米国内で済州4・3を知らせ、責任の究明に力をそそぐことにしました。

「全世界の人は済州4・3と手を握ってほしい…アメリカは明確な責任と立場を明らかにしなければ」(済州の声 2019/06/21)

姜禹一主教(カトリック済州教区)ニューヨーク「済州4・3、国連人権シンポジウム」で「道民虐殺命令は米軍政」の責任公論化

「私はもういくばくも残っていない済州4・3の生存者、特に犠牲者遺族そして済州道民すべてが一つの心になってアメリカ当局がどんな方法であってもその責任に対し明確な立場を表明することを切実に願っています。」

済州カトリック教会の主教であり済州社会で最も尊敬を受ける元老である姜禹一主教(済州教区長)が、全世界に向かって心を込めて訴えた。世界の人々が集まったニューヨークの国連本部の会議場中で、アメリカが4・3の責任を明らかにし、国際社会が4・3の手を握ることを心より求めた。

駐国連大韓民国代表部(大使趙兌烈)が主催して済州道、姜昌一国会議員室、済州4・3平和財団(理事長梁祚勲)が共同主催するシンポジウムが、現地時間20日午後3時(韓国時間21日早朝4時)アメリカ、ニューヨーク国連本部で開かれた。

「済州4・3の真実、責任そして和解」を主題に、今回の行事は「世界の心臓」である国連本部で4・3を語る初めてのシンポジウムだ。 済州や韓国の様々な団体と機関が力を合わせ、何よりも外交部傘下の駐国連大韓民国代表部が主催機関として参加し公信力を加えた。

海外でも熱い反応が見えた。アメリカの団体としては、アメリカ国内の代表的な人権団体である世界市民団体連合(CoNGO)と転換期の正義のための国際センター(ICTJ)、アメリカのキリスト教を代表するアメリカ・キリスト教教会協議会(NCCCUSA)、アメリカ長老教会、アメリカ・メソジスト教会の教会と社会委員会、韓米外交の架け橋の役割をしてきたコリア・ソサエティー、そして韓人の民主・人権団体である北米民主フォーラム、ニューヨーク民権センターなど、アメリカ国内団体も早くからこれを支持し参加した。 シンポジウム協力団体数は国内外を含む38団体に達する。

23回の当選を誇るチャールズ=レングル前アメリカ下院議員、市民団体「戦争を越えた世界(World Beyond War)」アリス スルレト、韓半島研究会(Korean Peninsular Study Group)ジョー=スピエルモン、コーネル大ステファン=カルベイ教授、北海道大学の吉田邦彦教授、ロナルド=グリーンバグ弁護士、キャロルリン=カルベイ弁護士をはじめとしてフィンランドアルジェリア、ガーナ、アフガニスタン、フィリピンの外交官と国連関係者たちも早くから参加の意向を伝え、この日ほとんどが参加して加勢した。

今回の基調発表で姜禹一主教は「国連でシンポジウムを開催する目的は、済州4・3犠牲者と遺族が今まで体験してきた苦痛と犠牲の歴史を、初めて国際社会に知らせるところにある」と明らかにした。

そして「いかなる理由であっても、このような非人間的な虐殺が繰り返されてはならないという事実を全世界に訴えることが二番目の目標」であり、「三番目に私たちは虐殺された犠牲者の恨(ハン)が極に達した叫びを伝え、米軍政と韓国政府当局が犯した不当行為を国際社会に明明白白にすることによって、究極的に正義と責任、和解を実現しようと思う。 私はこれこそが今日私たちが真の平和を成し遂げることができる方法だと信じる」と自身が立っている場に対する意味を強調した。

姜禹一主教は済州4・3の被害が、老若男女区別なく無差別的になされたことを強調した。

彼は「韓国政府の公式報告書によれば、1948年から1954年まで済州では警察と軍隊が民間人3万人以上を虐殺した。10歳未満の犠牲者の比率は5.8%で、61歳以上の犠牲者は6.1%を占める」として「若い女性たちが受けた性暴行も多くの村で広範囲に及んだ。拉致されて家に戻った女性たちは、自分たちが体験したことについて一生口を開かなかった。朝鮮戦争(1950~1953)勃発直後の刑務所で数多くの受刑者が処刑された。後に釈放された一部生存者は一生、警察の監視下で暮らさねばならなかった」と説明した。

したがって「済州4・3はアメリカと韓国の政府当局が犯した人権と人間生命に対する大きなな違反であり犯罪」と定義した。

姜主教はアメリカが朝鮮戦争参戦国であり数十年を越える韓国の友邦だが、虐殺犯罪の責任を認めなければならないと再度繰り返した。

姜主教は「米軍は日本警察と軍隊に協力した韓国人を相当数採用することに決め、永らく解放と独立を念願した人たちは途方もない挫折感を感じなければならなかった」、「秩序ある市場を保護するための積極的な経済政策を樹立しなかった。以前の経済体制を廃棄することによって、地主らと少数の富裕層が市場を思いのままに買い占めたり売り惜しむ機会を与えた」と解放以後の米軍政の問題を指摘した。

姜主教は「住民の大部分は政治理念と何の関連がない農民であったにもかかわらず、米軍は現地住民たちをただ左翼だと取り扱った。警察情報部が提供した誤った情報に全面的に依存した米軍指導部は、済州のすべての左翼運動を徹底的に鎮圧せよとの命令を下した」として「このような政策は大韓民国初代大統領に選出された李承晩にそのまま継承された。 処刑と虐殺を犯した者たちは韓国警察と韓国軍だったが、政策を樹立し作戦を遂行するように命令したのは米軍指導部であった」と明確に規定した。

姜主教は「4・3生存者、犠牲者遺家族、すべての済州道民は、アメリカ当局がどんな方法ででも、その責任に当てはまる立場を表明することを切実に願っていると確信する」として「国連の他の会員国も普遍的人権のために連帯を示し、この忘れられた歴史に対して関心と共感を表明してくだされば非常に有り難い」と促した。

《基調講演原稿全文》

ペテロ 姜禹一/カトリック済州教区長


私は今日、このシンポジウムで済州4・3に対する基調演説をすることになり、とても光栄だと思います。それは国連で発表できたからではなく、この70年間、済州4・3の悲劇で苦痛を受けてきた済州道民を代弁できる場であるためです。


1948年12月10日、パリで開かれた国連総会は世界人権宣言を宣布しました。それはすべての民族と国家が共に追求しなければならない基準のようなものでした。この宣言には、普遍的に保護されなければならない人間の基本的権利が史上初めて提示されました。ナチスが犯したあらゆる残酷行為を目撃した国際社会は、個人の人権を明示した普遍的宣言が必要だという合意に至ることになったのです。


しかしすぐに同じ時期に、韓半島の南端約100km地点に位置した済州島では、警察と軍隊が民間人を大量虐殺する歴史のアイロニーが広がりました。対外的には1948年4月3日、左翼武装団体が済州島海岸に位置した警察支署12ヶ所に対する攻撃を開始しました。当時、占領軍で韓国を統治した米軍指導部は、済州地域の軍警に無慈悲に蜂起を鎮圧しろとの命令を下しました。 以後、韓国政府が事件に対する調査や研究を許さなかったために、90%以上の韓国人はこの前例のない悲劇に対して、何と50年近く知らずに過ごしました。2000年になって政府は、済州4・3事件真相究明委員会を公式に発足させ、2003年には真相調査報告書が発刊されました。報告書が出るやいなや、多くの韓国人は政府当局が数多くの民間人に対して行った驚くほどの残酷行為に衝撃を受けました。犠牲者らと生存者は恐怖に真っ青になったあげく、永らく自分たちが体験した事件を言及することも、それに対して説明することもできませんでした。彼らはあまりの恐怖のために、彼らの子どもにさえなにも語らず、あえて記憶を打ち明けることができませんでした。家族にまで害が及ぶか恐ろしかったためです。済州4・3犠牲者と関連したこの人たちのうち、相当数の人々は他の地域、または他の国に移住しました。


今日、国連でシンポジウムを開催する目的は、犠牲者と遺族が今まで体験してきた苦痛と犠牲の歴史を初めて国際社会に知らせるところにあります。また、いかなる理由でも、このような非人間的な虐殺が繰り返されてはいけないという事実を全世界に訴えることが、二番目の目標です。三番目に私たちは虐殺された犠牲者の恨(ハン)が極に達した絶叫を伝えて、米軍政と韓国政府当局が犯した不当行為を国際社会に明明白白に明らかにすることによって、窮極的に正義と責任、和解を実現しようと思います。 私はこれこそが、今日私たちが真の平和を成し遂げられる方法だと信じます。


歴史的背景

済州4・3は、日本が第二次大戦で崩壊した直後、韓半島から撤収して韓国が混乱を経た転換期に発生した悲劇でした。2003年3月29日に発刊された韓国政府の公式報告書によれば、1948~1954年に済州では警察と軍隊が民間人3万人以上を虐殺しました。10歳未満の犠牲者の比率は5.8%で、61歳以上の犠牲者は6.1%を占めます。この数は、加害者が性別や年齢を区分なく無差別殺傷を日常に行ったという事実を示しています。20~30歳の犠牲者の比率は35.3%、11~20歳の犠牲者の比率は21.6%です。逮捕あるいは短期拘束直後、すべての年齢層の市民が殺されました。適法な捜査や裁判手続きに対する記録は一つもありません。若い女性たちが受けた性暴行もやはり多くの村で広範囲に及びました。拉致されて家に戻った女性たちは、自分たちが体験したことについて、一生口を開きませんでした。済州地方検察庁の収監者名簿によれば、有罪判決を受けた受刑者は2,530人に達しました。朝鮮戦争(1950~1953)勃発直後、いくつかの刑務所で数多くの受刑者が処刑されました。後日釈放された一部生存者は一生の間、警察の監視下で暮らさなければなりませんでした。 済州4・3は、アメリカと韓国の政府当局が犯した人権と人間生命に対する大々的な違反であり犯罪でした。


済州4・3以前の社会経済的環境

日本が降参した時だけでも、韓国人は自分たちだけの国を夢見て、情熱的に燃え上がりました。多くの人々が新しいシステムと組織を導入して、新しい国家を作る準備過程に自発的に参加しました。しかし韓国に上陸した米軍は、新しい国家に奉仕しようとする自発的運動を容認しなかったのです。米軍政は自ら臨時軍政を組織して、自分たちの制度を韓国国民に押し付けました。韓国はすでに1919年4月、中国・上海に臨時政府を設立し、以後臨時政府は日帝が加えたあらゆる抑圧と妨害工作を耐え抜きました。しかし米軍はこの組織の適法性を認めなかったのです。むしろ日本警察および軍隊に協力した韓国人を相当数採用することに決め、永らく解放と独立を念願した人たちは途方もない挫折感を感じなければなりませんでした。この決定は多くの韓国人を大きく落胆させ、韓国に深い分裂の種を植えました。


第二次大戦終戦後、アメリカ政府はアジアで共産主義の影響力が拡大する状況を憂慮しました。 中国とベトナムで共産陣営が内戦で勝利をおさめて権力を掌握していたためです。米軍政は左翼勢力の影響力拡張に対して非常に不安に思い、主に韓国の国内治安状況に関心を持っていました。しかし米軍政は効率的な行政システムで民間を統治する準備ができておらず、何回も重大な失敗を犯しました。


米軍政は日帝植民統治下の国家統制経済を撤廃して自由市場制度を導入しました。しかし秩序ある市場を保護するための積極的な経済政策を樹立しなかった。以前の経済体制を廃棄することによって、地主らと少数の富裕層が市場を思いのままに買い占めたり売り惜しむ機会を与えました。これは市場秩序を完全につぶしました。1945年9月末は9.4円だった米価格は、1年後には280倍上がって2,800円まで急騰しました。他の地方より貧しかった済州道民は、前例のない経済危機を体験しなければなりませんでした。米軍関係者たちは日帝強占期間に植民地公務員だった指導部の警察力に、すべての行政権限を委任することによって社会秩序を維持しようとしたので、島民たちは米軍政を信頼できませんでした。 そしてこのような理由で米軍当局に抗議し始めました。


米軍政の力量と済州道民の期待値の間に非常に大きい格差が発生し、済州4・3という苦しみの悲劇が生まれました。 済州道民は米軍をもう一つの外国占領軍と感じました。米軍指導部は現地住民たちに適切な行政サービスを提供する準備ができておらず、そういう訓練を受けられなかった人たちでした。第二次大戦終戦後の1年間に、60,000人に達する済州出身在日同胞が突然日本から帰国して、済州道内には食糧と働き口が極度に不足しました。済州道民は深刻な恐慌状態に陥りました。


このような混沌の中に1947年3月1日、30,000人に達する済州道民が学校運動場に殺到して、現在の自分たちが置かれている危機的状況に不満を示しました。3月1日にこのように多くの住民たちが集まったという点は、米軍を解放軍でなくむしろ、もう一つの侵入者と感じたという事実を暗示しています。1919年3月1日は、日帝に対抗した抵抗の象徴だったからです。米軍指導部は永らく日帝に抵抗した済州地域の指導層を受け入れ、彼らと協力するのにあまりに稚拙でした。米軍は島住民全体をソ連と結びついたアカの反乱者などと見なしました。米軍指導部のこのような誤解と偏見、誤った判断により、道民全体が彼らに背を向け、結局30,000人に達する民間人虐殺につながりました。住民の大部分は政治理念と何の関連もない農民であったにも拘わらず、米軍は現地住民たちをただ左翼とだけ取り扱いました。警察情報部が提供した誤った情報に全面的に依存した米軍指導部は、済州のすべての左翼運動を徹底的に鎮圧せよとの命令を下しました。 そしてこのような政策は大韓民国初代大統領に選出された李承晩に、そのまま継承されました。処刑と虐殺を犯した人たちは韓国警察と韓国軍でしたが、政策を樹立し作戦を遂行するよう命令した人たちは米軍指導部でした。


盧武鉉大統領は韓国大統領として済州4・3発生後、55年ぶりに済州を訪ね済州道民に公式謝罪をしました。文在寅大統領は昨年4月3日、70周年追悼式に参加し真心をもって遺憾の意を表明しました。私はもう何人も残っていない4・3生存者、特に犠牲者遺家族、そして済州道民すべてが心を一つにして、アメリカ当局がどんな方法ででも、その責任に当てはまる立場を表明することを切実に願っていると確信します。 国連の他の会員国も普遍的人権のために連帯を示し、この忘れられた歴史に対して関心と共感を表明してくだされば非常に感謝します。 今回のシンポジウムが、真の平和と和解を引き出す国際的な協力の良い種になることを心より望みます。 有り難うございます。 

(呉光現訳、一部修正)

ニューヨーク国連本部で再照明された済州4・3(プレシアン 2019/06/21)

ブルース=カミングス教授「アメリカは実質的責任を免れることができない」…パク・テウンUH教授「事実関係と証拠を土台に精密な論議・検証が必要」

「済州4・3の真実、責任そして和解」というテーマの人権シンポジウムが20日(現地時間)午後ニューヨーク国連本部で開催された。

この日、シンポジウムでは済州4・3遺族の発表を通じてアメリカの責任問題とともに4・3の精神と真相究明運動の過程を、過去の問題解決の新しい世界的モデルとして模索、4・3平和和解運動をノーベル平和賞推薦運動で昇華しようという意見も提示された。

基調発表をした姜禹一主教(前韓国カトリック教会議長)は「済州4・3はアメリカと韓国政府当局が犯した人権と人間生命に対する大々的な違反であり犯罪であった」「処刑と虐殺を韓国警察と軍人が犯したが、政策を樹立して命令を履行した人びとは米軍指導部であった」と主張した。

彼は「アメリカ当局がどんな方法であっても立場を表明することを願って国連の他の会員国も普遍的人権の連帯でこの忘れられた歴史に関心と共感を表明してくだされば感謝です」と話した。

韓国現代史研究の著名な学者であるブルース・カミングス シカゴ大特任教授は「済州4・3とアメリカの責任」という発表で「アメリカ人の大多数が第2次大戦後の韓国の状況と関係がない傍観者のように振るまっているが、事実は日帝に協力した韓国人を支援して3年間、韓国軍部と軍警を導いた」としながら「結局、当時の済州道民人口の10分の1に該当する3万人ほどを虐殺するに至った」と主張した。

それと共に彼は「アメリカの実質的責任は免れない」と主張した。

国務省東北アジア室長を歴任したジョン・メリル博士は「韓国は1948年8月まで米軍政統制下にあったので、アメリカやはり相当な責任を負わなければならない」として「米軍は結果にだけ注目して、たびたび地域治安部隊の暴行を知っていたし、鎮圧作戦は悪辣で無慈悲に展開した」と明らかにした。

老斤里事件を集中報道した功労でピューリッツァー賞を受賞したチャールズ・ヘンリー前AP通信編集局長は、4・3当時のアメリカの二大言論であるAP通信ニューヨークタイムズの報道について分析した。

チャールズ・ヘンリー記者は「これら言論の済州4・3に対する報道は1段落もしくは長くても6、7段落に過ぎず、情報の出所はソウルに駐留中の米陸軍の場合がほとんどであった」として「徹底して冷戦の観点から事態を眺めた」と指摘した。

チャールズ・ヘンリー記者は「二つの言論は、米軍の済州島駐留が確定していなかったという点を強調し、記事の内容は米軍と関係がないという立場を取ったが、これは何よりもブラウン大佐、ロバート将軍、ディーン将軍の管理・監督の役割を見逃した報道であった」と語った。

「済州4・3と国際人権法」を発表したペク・テウン ハワイ大ロースクール教授(国連人権理事会強制失踪委員)は「済州4・3討伐の過程で広がった過剰鎮圧、大量虐殺、焦土化などは、決して法的責任を避けられない重大な事案であり、その責任の類型も刑事法的責任はもちろん民事法的責任、人権法的責任などを網羅した総合的である要素を考慮しなければならない」としつつ「このような責任関係の議論のためには、具体的な事実関係の確定と証拠の蓄積などを含めて、非常に精密な議論と検証の過程が必要だ」と提案した。

4・3当時、北村虐殺事件の遺族であるコ・ワンスン ハルモニは、家族6人の被害状況を証言した後「国連は世界平和と人権のために設立された国際機構だと聞いた」として「国連の設立趣旨に合うように、アメリカが4・3の真実の解決に積極的に参加することを願う」と述べた。

この日、シンポジウム出席者の討論を通じて、4・3の惨状の真実とアメリカの責任問題を扱うための国際委員会発足など連帯の必要性と、国連記録保管所の資料検索、ワシントンDCでの4・3シンポジウム開催など多様な意見が提示された。

またノ・ジョンソン延世大名誉教授は、朝鮮戦争当時6歳の時、済州島で避難生活をしたが、西北青年団家族の一員だったと告白して「西青が済州島で行った蛮行に対して謝罪する」という立場を明らかにした。

4・3シンポジウムのために参加したチョン・ヒョンソ君(大静高)とカン・ヘミンさん(晨星女子高)は「4・3精神に対して共感できる教育がなされるならば、より正義が重んじられる社会になる」と話し「このシンポジウムを通じて、いっそう多くの人びとが4・3精神を記憶し継承できるよう希望する」と話した。

(呉光現訳、一部修正)

済州4・3国連人権シンポジウム(北米民主フォーラム 2019/06/22)

国連本部での初めての済州4・3国連人権シンポジウムは駐大韓民国国連代表部(大使・趙兌烈)主催、済州特別自治道、姜昌一国会議員室、済州4・3平和財団(理事長・梁祚勲)の共同主管、そして国内外38協力団体によって、2019年6月20日午後3時、ニューヨーク国連本部11号カンファレンスルームで開かれました。

済州4・3の真実、責任そして和解精神を公論化することによって過去事清算の世界的モデルを目指し、国内外研究者の発表と討論、4・3被害者の証言を通じて真相究明に対する国際的な共感を形成して、支持と連帯の確保を目的に済州4・3シンポジウムが国連で初めて開かれることになりました。

北米民主フォーラムは、米国全地域とカナダで活動する韓国人民主・人権団体で、今回の済州4・3人権シンポジウム協力団体で参加することになりました。 遠くカナダから、ボストンから、バージニアから、今回のシンポジウムに参加するために来られた方々に心より謝意を表します。

済州4・3国連人権シンポジウムは、朴明林(延世大教授、延世大金大中図書館長)教授の司会でプログラムが進行しました。

歓迎のことばで、駐国連大韓民国代表部の趙兌烈大使「済州4・3は、理念という美名の下に、数多くの罪のない良民が政府機関によって犠牲になった、私たちの歴史において最も悲劇的な事件の中の一つです」。

祝辞で、米国キリスト教教会協議会(NCCCUSA)のジム・ウィンクロー会長「4・3という惨劇は数万人の民間人が虐殺された事件で、東アジアで最も規模が大きかった虐殺の一つだが、済州道民がこのとてつもない悲劇を克服し、4・3を平和、人権、和解、共存のモデルにして下さったことに対して感謝申し上げる」。

挨拶で、済州4・3平和財団の梁祚勲理事長「済州4・3がここニューヨークまで来るのはとても遠い道でした。冷戦と南北分断の渦の中で起きた残酷な悲劇を記憶し連帯して闘ってきたすべての旅程には、何と71年という歳月が必要でした。その途上で流した済州道民と韓国国民の血と汗と涙は、推し量ることができないでしょう」。

姜禹一主教(カトリック済州教区長)「国連でシンポジウムを開催する目的は、済州4・3犠牲者と遺族が今まで体験してきた苦痛と犠牲の歴史を、初めて国際社会に知らせることで、このような非人間的な虐殺が繰り返されてはならないという事実を全世界に訴えることが次の目標で、三番目に私たちは虐殺された犠牲者の恨(ハン)が極に達した絶叫を伝えて、米軍政と韓国政府当局が犯した不当行為を、国際社会に明明白白に明らかにすることによって、最後には正義と責任、和解を実現し、これこそが今日私たちが真の平和を成し遂げられる方法だと信じる」。

ブルース・カミングス教授「アメリカ人の大多数が第2次大戦後の韓国の状況と関係がない傍観者のように振るまうが、実際は日帝に協力した韓国人を支援して3年間韓国軍部と軍警を導いた。結局、当時の済州道民人口の10分の1に該当する3万人ほどを虐殺するに至ったという点で、アメリカが実質的責任を免れることはできない」。

ジョン・メリル前米国務省東北アジア室長「韓国の'暗い歴史'を一つ一つ告発することこそ、朝鮮半島の平和と和解のために必ず必要な段階」。

徹底して冷戦の観点から事態を眺めたチャールズ・ヘンリAP通信編集部局長は「これら言論の済州4・3に対する報道は1段落ないしは長くても6、7段落に過ぎず、情報の出所はソウルに駐留中の米陸軍である場合がほとんどだった」。

「済州4・3と国際人権法」を発表したペク・テウン ハワイ大ロースクール教授「済州4・3討伐の過程で広がった過剰鎮圧、大量虐殺、焦土化などは決して法的責任を避けることはできない重大な事案であり、その責任の類型も刑事法的責任はもちろん民事法的責任、人権法的責任などを網羅した総合的である要素を考慮しなければならない」。

チョン・ヒョンソン、カン・ヘミン学生「4・3精神に対して共感できる教育が成り立つならば私たちの社会はより正義が重んじられる社会になる」「このシンポジウムを通してさらに多くの人々が4・3精神を記憶し継承できることを希望する」。

シンポジウムで司会を担当した朴明林教授は「済州4・3の和解モデル」を強調しながら「4・3平和・和解運動は、加害と被害、民と官、進歩と保守を越えて、和解と共生、寛容と赦しの象徴として生まれかわる。グローバルな連帯を通じてノーベル平和賞推薦運動を展開しよう」。

(呉光現訳、一部修正)

2006年4月3日、盧武鉉大統領の追悼辞全文

尊敬する国民のみなさま、済州道民と4・3遺族のみなさま、

私たちは今日、58年前の分断と冷戦が呼び起こした不幸な歴史の中で、無残に犠牲になった方々の御霊を慰めるためにこの場に一同に会しました。

私はまず、深い哀悼の気持ちで4・3の英霊を追慕し、謹んで冥福を祈ります。永い歳月を言葉ですべて表すことはできない、くやしさを胸に抱いて苦痛を耐えてこられた遺族のみなさまに心より慰労の言葉を申し上げます。

合わせて武力衝突と鎮圧過程で国家権力が不法に行使された誤りに対して、済州道民のみなさまにもう一度お詫び申し上げます。

済州道民と遺族のみなさま、

2年半前、私は4・3事件真相調査結果報告を受けて、大統領として国家を代表してみなさまにおわび申し上げたところです。その時、みなさまが贈ってくださった拍手と涙を私は今でも生き生きと記憶しています。そしてそれが何を意味するのか、いつも胸に刻んでいます。

政府はこの間、犠牲者の名誉回復と追悼事業などに多くの努力を傾けてきました。先月にも2,800人余りを4・3犠牲者に追加認定をし、この4・3平和公園造成を積極支援しています。遺骸と跡地を発掘することも持続的に支援していきます。

4・3事件委員会が建議した政府の謝罪と名誉回復、追悼事業などは相当な進展がなされています。まだ至らない部分が少なくはありませんが、これに対し国民的な共感を広めて可能なことを一つずつ取り組んでいかねばなりません。

今後も平和と人権の大切さを悟らせた4・3事件をきちんと知らせて、罪のない犠牲が無駄にならないように最善を尽くしていきます。

国民のみなさま、

誇らしい歴史も恥の歴史で、歴史はありのまま明らかにして整理していかなければなりません。特に国家権力によって行われた誤りは必ず整理せねばなりません。

国家権力はいかなる場合にも合法的に行使されなければならなく、逸脱に対する責任は特に重いものです。また、赦しと和解を語る前に無念の苦痛を受けた方々の傷を癒し、名誉を回復せねばなりません。これは国家がすべき最小限の道理であり義務です。その時、国家権力に対する国民の信頼が確保され、私たちの国民が一緒に共生して統合できるでしょう。

まだ過去の歴史整理作業が未来へ進むのに障害物になると考える方々もおられるようです。しかし決してそうではないと思います。過去の歴史がきちんと整理されなかったために、葛藤の障害物を今まで越えることができませんでした。

誰を罰して、何かを奪おうということでは決してありません。事実は事実通りに明確にして、無念の汚名と深い恨(ハン)を晴らして、再びこのようなことが起きないようにともに誓おうということです。 それでこそ真の赦しと和解を通じて、私たちの国民が一つになって進むことができるでしょう。過去の歴史を一つ一つ結び、解きほぐしていく時、その結び目は未来に向かって踏み出す新しい踏み石になることができるでしょう。

済州道民のみなさん、

済州道は大韓民国の宝です。私たち国民はもちろん世界の人が愛する平和の島、繁栄の島で力強く跳躍しています。

私は済州道が必ずやり遂げるだろうと信じます。道民の皆さんは廃虚を踏みしめ、美しい島の再建をやり遂げ、どの地域より高い自治力量を見せています。住民自ら決議して常に中央政府が期待する以上の高い成果を成し遂げてきました。みなさまが率先して進むのに政府も熱心に声援し、力いっぱい後押しします。

ともに力を集めて豊かで活力あふれる済州を創り出しましょう。この平和の島を通じて韓国と東北アジアの平和、さらには世界の平和が成し遂げられるように、創り出しましょう。

いま一度4・3の英霊を追慕して、永遠の安息を祈ります。

そして私は、今日この場でこの行事を見守りながら、その途方もない苦痛と怒りが、時間の流れとともに顧みることができる歴史となり、またその歴史の場で進められた公演を見ながら、今後また数十年の歳月が流れれば、これが済州道の新しい一つの文化として根付き、それがわが国民みなにとって怒りと不信と憎しみでなく、愛と信頼そして和解を教えてくれる、とても重要な象徴になるだろうという、そんな期待を持つことになりました。ともに努力しましょう。 ありがとうございます。

(呉光現訳、一部修正)

2018年4月3日、文在寅大統領4・3犠牲者追念日追念辞

4・3生存犠牲者と遺族のみなさま、済州道民のみなさま、
石垣ひとつ、落ちた椿の花ひとつ、痛哭の歳月が刻まれている済州で
「この地に春はあるのか」
みなさまは70年の間、問うてきました。
私は今日、みなさまに済州の春を告げたいと思います。
悲劇は長く、ただ風が吹いても涙が出るほどに痛みは深いものでしたが、
菜の花のように満開に、済州の春は咲き始めるでしょう。
みなさまが4・3を忘れることなく、みなさまと痛みを共にする方々がいて、
今日、私たちは沈黙の歳月から立ち上がり、こうして集うことができました。
渾身の力を尽くして4・3の痛恨と苦痛、真実を知らせてきた
生存犠牲者と遺族、済州道民に、大統領として、深い慰労と感謝の言葉を申し上げます。

尊敬する済州道民のみなさま、国民のみなさま、
70年前、ここ済州で無辜の良民が理念の名において犠牲になりました。
理念というものを知らずとも、泥棒も無く、乞食も無く、家の門も無く、ともに幸せに暮らしていた罪無き良民が、理由も分からぬまま虐殺されました。
1948年11月17日、済州道に戒厳令が宣布され、中山間村を中心に
焦土化作戦」が展開されました。
家族のうち一人でもいなければ「逃避者家族」という理由で殺されました。
中山間村の95%以上が焼き尽くされ、村の住民全体が虐殺されたところもあります。

1947年から1954年までに、当時の済州人口の10分の1にあたる3万人が亡くなったものと推定されます。
理念が引いた生と死の境界線は虐殺現場にのみあったのではありません。
一度に家族を失いながらも、「暴徒の家族」と言われないために息を潜めて生きなければなりませんでした。

苦痛は連座制によっても受け継がれました。
軍人になり公務員になって国のために働こうとする子どもの熱望を、
済州の親たちは自ら砕かなければなりませんでした。

4・3は済州の隅々にわだかまる苦痛でありましたが、
済州は、生きのびるために記憶を消さねばならない島になりました。
しかし、語ることのできない歳月の間、済州道民の心の中から真実は消えませんでした。
4・3を歴史に正しく位置づけるための涙ぐましい努力も絶えませんでした。

1960年4月27日、観徳亭広場で「忘れろ、黙っていろ」と迫る不義の権力に対し、済州の青年学生たちが立ち上がりました。
済州の中学生・高校生1,500人が、3・15不正選挙の糾弾とともに4・3の真実を叫びました。

その年、4月の春は、いくらもせずに5・16軍部勢力によって挫かれましたが、
真実を知らせようとする勇気は失せませんでした。
数多くの4・3団体が記憶の外にあった4・3を絶えず呼び戻しました。
済州4・3研究所、済州4・3道民連帯、済州民芸総など、多くの団体が4・3を抱きとめてきました。

4・3を記憶することが禁忌とされ、話すことさえ不穏視された時節、
4・3の苦痛を作品に刻み込み、忘却から私たちを呼び覚ましてくれた方々もいました。

維新独裁のピークだった1978年に発表された小説家・玄基榮(ヒョン・ギヨン)の「順伊おばさん」。
金石範(キム・ソクポム)作家の「鴉の死」と「火山島」。李山河(イ・サンハ)詩人の長篇叙事詩「漢拏山」。
3年間に50編の「4・3連作」を完成した姜堯培(カン・ヨベ)画伯の「椿散る」。
4・3を扱った最初のドキュメンタリー映画である趙成鳳(チョ・ソンボン)監督の「RED-HUNT」。
オ・ミョル監督の映画「チスル」。イム・フンスン監督の「ピニョム」と金東満(キム・ドンマン)監督の「タランシュイ窟の悲しい歌」。
故キム・ギョンユル監督の「終わらない歳月」。歌手・安致煥(アン・チファン)の歌「眠らない南の島」。
時には逮捕や投獄につながった芸術家たちの努力は、
4・3が単に過去の不幸な事件ではなく、現在を生きる私たちの話であることを教えてくれました。
ついに、私たちは4・3の真実を記憶しさらけ出すことが、
民主主義と平和、人権の道を開いてゆく過程であることを知るようになりました。

済州道民とともに長い間、4・3の痛みを記憶し、知らせてくれた方々がいたからこそ、
4・3は蘇りました。
国家暴力による、そのすべての苦痛と努力に対して、大統領として、
もう一度深くお詫びし、また深く感謝申し上げます。

4・3生存犠牲者と遺族のみなさま、国民のみなさま、
民主主義の勝利が真実へと進む道を開きました。
2000年、金大中政府は、4・3真相究明特別法を制定し、4・3委員会をつくりました。
盧武鉉大統領は、大統領として初めて、4・3に対する国家の責任を認め、慰霊祭に参席し、犠牲者と遺族、済州道民に謝罪しました。

私は今日、その土台の上に、4・3の完全なる解決に向けて揺るぎなく前進することを約束します。

これ以上4・3の真相究明と名誉回復が中断されたり後退することはないでしょう。
それとともに、4・3の真実はいかなる勢力も否定することのできない明白な歴史の事実としての地位を確立したということを宣言します。

国家権力が加えた暴力の真相をまともに明らかにし、犠牲になった方々の無念を晴らし、
名誉を回復するようにいたします。
このために、遺骸発掘事業も悔いの残らぬよう最後まで継続していきます。
遺族や生存犠牲者の傷や痛みを治癒するための政府次元の措置に最善を尽くす一方、賠償・補償や国家トラウマセンター設立などの立法が必要な事項は国会と積極的に協議します。
4・3の完全なる解決こそ、済州道民と国民みなが望む和解と統合、平和と人権の確固たる礎となるでしょう。

済州道民のみなさま、国民のみなさま、
いま済州は、そのあらゆる痛みから立ち上がり、平和と生命の地として復活しています。
私たちは今日、4・3英霊の前で、平和と共生は、理念ではなく、ただ真実の上にのみ成り立ちうるという事実を再び確認しています。

左と右の激しい対立が残酷な歴史の悲劇を生みましたが、4・3犠牲者と済州道民は、
理念がつくりだした不信や憎悪を乗り越えました。

故オ・チャンギさんは、4・3当時、軍・警察の銃により負傷しましたが、朝鮮戦争が勃発すると「海兵隊3期」として志願入隊し、仁川上陸作戦に参戦しました。
両親と妻、そして妻の母親と妹をことごとく失った故キム・テセンさんは愛国の血書を書いて軍隊に志願しました。

4・3で「アカ」と決めつけられた青年たちが死を賭して祖国を守りました。
理念はただ虐殺を正当化する名分に過ぎませんでした。
済州道民は和解と赦しによって、理念がつくりだした悲劇に打ち克ちました。

済州の下貴里には護国英霊碑と4・3犠牲者慰霊碑を一ヶ所に集めて慰霊檀がつくられました。
「みな犠牲者なのだから、みな容赦するという意志」で碑を建てました。
2013年には、最も葛藤の大きかった4・3遺族会と済州警友会が条件無しの和解を宣言しました。

済州道民が結び始めた和解の手は、いま全国民のものとならなければなりません。
私は今日、この席で国民に訴えます。

いまなお4・3の真実に目を背ける人びとがいます。
いまなお古い理念の屈折した目で4・3を見る人びとがいます。
いまなお大韓民国には古い理念がつくり出した憎悪や敵対の言葉が溢れかえっています。

いまや私たちは痛ましい歴史を直視できなければなりません。
不幸な歴史を直視することは、国と国との間にのみ必要なことではありません。

私たち自らも4・3を直視できなければなりません。
古い理念の枠に思考を閉じ込めることから抜け出すべきです。

いま大韓民国は、正義の保守と正義の進歩が、
「正義」で競争すべき国にならなければなりません。
公正な保守と公正な進歩が、「公正」をもって評価される時代でなければなりません。

正義でなく、公正でなければ、保守であれ進歩であれ、
どんな旗であれ、国民のためのものになりえないでしょう。
暮らしのあらゆるところで、理念が落とした敵対の影を取り払い、
人間の尊さを花咲かせられるよう、みながともに努力していきましょう。
それが今日、済州のオルムが私たちに聞かせてくれる話です。

4・3生存犠牲者と遺族のみなさま、国民のみなさま、
4・3の真相究明は、地域を越えて、不幸な過去を反省し、人類の普遍価値を取り戻すことです。
4・3の名誉回復は、和解と共生、平和と人権へ進みゆく私たちの未来です。

済州は深い傷痕のなかにあっても、この70年間、平和と人権の価値を叫んできました。
いま、その価値は朝鮮半島の平和と共存につながり、
人類全体に向けた平和のメッセージとして伝えられるでしょう。

恒久的な平和と人権に向けた4・3の熱望は、決して眠らないでしょう。
それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。
今日の追悼式が、4・3英霊と犠牲者に慰めとなり、
私たち国民にとっては新たな歴史の出発点となることを願います。

みなさま、
「済州に春が来ています。」

ありがとうございます。

(村上尚子訳)

本ブログ「70周年関連重要文書」より転載

姜禹一主教、国連本部で済州4・3を伝える(カトリック平和放送CPBC  2019/06/12)

 

[キャスター]全世界の国家の声が一つに集まるところです 。

米国ニューヨーク国連本部で来週、済州4・3事件に対するシンポジウムが開かれます。 済州教区長姜禹一主教が基調提案をする予定ですが、4・3事件の真相を究明できる意味深い場になるだろうと展望されます。

[記者]済州4・3事件の惨状を知らせる声が、初めて国連本部で鳴り響きます。

駐国連大韓民国代表部は、来る20日国連本部カンファレンスルームで「済州4・3国連人権シンポジウム」を開催します。 今回のフォーラムの主題は「済州4・3の真実、責任そして和解」です。フォーラムの基調提案は、済州教区長姜禹一主教が行うことになりました。姜主教は基調提案を通じて4・3事件の真実を全世界に知らせる予定です。

<姜禹一主教/済州教区長>済州4・3 70周年追悼ミサ中
「4・3の3万人余りのその犠牲は決して犬死でなく人間の尊厳と自由と平等をこの土地に実現するために自らをひとりでに捧げた殉教者の行列だった...」

当時、最も多くの人が犠牲になった朝天邑北村里虐殺事件の遺族であるコ・ワンスン ハルモニも証言者として参加します。

また、韓米現代史専門家であるブルース・カミングス シカゴ大客員教授、ジョン・メリル前アメリ国務省東北アジア室長、ピューリッツァー賞受賞者であるチャールズ・ヘンリー前AP通信編集部局長、国連人権理事会強制失踪委員であるペク・テウン ハワイ大教授も発表に参加します。

韓米両国の38団体も今回のシンポジウムに協力団体で関わっています。

世界の心臓であり人権を象徴する国連本部で、済州4・3事件に光が当てられるのは意味あることです。長い間、冷遇されてきた悲劇的な歴史が、全世界の人の追慕と連帯へつながることができるからです。

カトリック教会は済州4・3の真実を知らせ、その痛みを癒すために努力してきました。 特に済州教区は昨年「済州4・3 70周年特別委員会」を通じて、4・3事件の再照明に努力しました。 何より悲劇を経て和解と共生へ行く道を模索するために力を注ぎました。

<姜禹一主教/済州教区長>済州4・3 70周年追悼ミサ中
「2016年のロウソクの炎の前に、1987年に6月抗争があり、その前には5・18光州民主化運動(1980年)があり、その前には4・19革命(1960年)があり、4・19革命前に済州4・3があり、済州4・3の前に3・1運動(1919年)があり、その前には東学革命(1994年)がありました。」

71年前の済州4・3の真実に、今こそ向き合わなければなりません。 国連本部で開かれる今回のシンポジウムは、済州4・3の普遍化と世界化の転機を準備する契機になるだろうと期待されます。

<姜禹一主教/済州教区長>済州4・3 70周年追悼ミサ中
「今まで私たちは4・3に名前をきちんと付けられませんでした。 何と呼ぶべきか…、 もう済州4・3に抗争という名をつけてもよいだろうという気がします。」

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