2018年9月12日付、韓国・ハンギョレ新聞「왜냐면(なぜかといえば)」欄に掲載された記事の日本語原文です。 |
大阪に済州4・3慰霊碑を建てる 藤永壯(日本・大阪産業大教授)
今年70周年を迎えた「済州4・3」。そのもう一つの「現場」が日本の大阪だったことを、韓国ではどれだけの人が知っているだろうか。
済州と大阪の因縁は長く、深い。周知のように、大阪は日本で最も在日同胞の方々が集中している地域であり、しかもその多くを済州出身者が占めている。日本の朝鮮植民地支配のもと、済州島民は生活の糧を求めて、当時日本最大の工業地帯であった大阪へ出稼ぎに行き、やがて定着していった。大阪の済州出身者は1934年の時点で約3万7千名を数え、大部分が底辺労働者として日本資本主義の歯車に組み込まれつつも、民族解放を求めて大阪の社会運動を牽引する一翼を担っていった。
解放後、多くの済州出身者は故郷へいったん帰還する。しかし対日関係断絶にともなう送金途絶や生活必需品不足、コレラ流行と麦の大凶作、さらに帰還者の就業難などによって、再び日本へ渡航する者が現れた。とりわけ済州4・3の起点とされる1947年の3・1節発砲事件以後、再渡航者は急増し、日本への渡航は明らかに「政治難民」の性格を帯びていた。4・3の惨劇は、こうした済州からの避難者や、平壌経由の外電を通じて在日同胞社会にも伝わっており、1949年に入ると大阪の各地では済州出身者による追悼集会が開催されたこともあった。
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