大阪に済州4・3慰霊碑を建立します!

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。70周年を迎え、済州島出身者が多く住む大阪の地に犠牲者の慰霊碑を建立します。

済州4・3 70 もう一つの現場

呉光現・在日本済州4・3犠牲者遺族会会長が、済州4・3平和財団の機関誌『4・3と平和』第32号(2018年8月)に大阪での慰霊碑建立の意義について寄稿しました。日本語原文を紹介します。
済州4・3 70 もう一つの現場~在日本済州4・3慰霊碑建立に向けて~
呉光現(在日本済州4・3犠牲者遺族会会長)

日本にいるからこそ語れなかった「済州4・3」、済州人が寄り添って生きてきた大阪・猪飼野。

アボジが殺され、兄が犠牲になり、弟妹と永久に会えなくなっても泣くことすらできなかった「在日の済州4・3」。

1988年、日本で初めて済州4・3追悼集会が開かれた。東京の韓国YMCA 9階の講堂であった。150人も入れば満員の会場に300人以上が詰めかけた。立錐の余地どころか演壇の前まで人があふれた。みんな待っていたのだ! 済州4・3が生き返るのを!

1957年、私が大阪で生まれた時に金石範は鴉の死を発表した。それから17年、高校生だった私は偶然これを手に取り読んだ。「済州島の話しだ。アボジ、オモニの故郷だ」。と読みつつ済州4・3が私の目前に登場した。1974年のことである。しかし私はなにもできなかった。アボジに尋ねたが烈火の如く怒りが私にむけられた「誰に教えてもらった」と。

1988年、東京で集会がもたれた時、大阪でも集会をしようと動きがあったのを後に知った。しかし大阪はできなかった。あまりに済州人が複雑に絡み合って住んでいるからだった。それから10年後、私たち在日2、3世6名が済州4・3の慰霊祭を大阪で開いた。済州4・3 50周年の時である。「慰霊」であるならば在日1世のハンを解かねばならない。済州から金允洙シンバンを招いて行った慰霊祭は300人を越える済州人1世を初めとして500人が集まった。涙し、そしてシンバンに無念の死を遂げた身内が安らかに眠ることを祈った。

今だから言おう、大阪の慰霊祭には領事館が止めなさいと介入があった。済州4・3は語ることができなかった現実がそこにもあった。

それから20年。未だに済州4・3におびえる在日同胞もいる。しかし20年の歳月は決して短くない。済州4・3を大阪で公論化させるため多くのことをしてきた。学習会、演劇、コンサート、映画上映、済州4・3の旅……。今や在日同胞だけでなく多くの日本市民も参画する運動になった。100人に満たなかった名簿は1000名を越えるに至った。そこには済州4・3当事者の1世、遺族、2・3世以降の若い人たちの姿がある。

済州4・3は南北分断に抗する闘いだ。2018年南北の和解が進む中で私たちは70周年を迎えた。3月に国際シンポジウム「済州4・3と日本からの視点」、「済州4・3連続映画会」、朝鮮籍同胞も含めた100人で参加した「済州4・3 70慰霊の旅」。この時82歳の朝鮮籍のオモニは私にこう語った。「初めてで最後の済州の旅です」。彼女の両親の墓は二徒である。「生まれて初めて親の墓参りができた」と語る彼女のハンは解かれたのだろうか?

そして、70周年の慰霊祭は関西済州道民協会、韓国民団支部朝鮮総連支部の協力を得てこれまでにない人々が集まった。動員ではない、自主的に集まった人たちに価値がある。ここに済州4・3の和解と真相究明に馳せる思いが詰まっている。そうだ、済州4・3は二つに引き裂かれたものが再び一つになる「生きている」ものだ。

済州人の喜び、悲しみ、無念が詰まった大阪。私たちはこの歴史を残していきたい。そしていつでも済州4・3を思うことのできる印を大阪で建立することになった。

済州4・3のもう一つの現場、大阪で済州4・3犠牲者慰霊碑を立てることになった。除幕は今年の秋。20年前には想像もできなかった済州4・3の碑が大阪で建てられる。これは在日・日本人・済州人……、の力が合わさってなされる業だ。

この事業は多くの人の参与がなければ実現しない。そしてまだまだ越えなければならない課題はある。しかし私は確信している。「もう一つの現場」は又大切な現場であることを。

모금목표액 350만엔(약 3,500만원)
모금계좌:
 KB국민은행 874101-01-121151 (예금주: 김한나)
 KEB하나은행 134-891211-00207 (예금주: 김한나)

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