済州四・三 76周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

対馬で4・3慰霊祭開催

さる9月29日に対馬で日韓の市民による済州4・3合同慰霊祭が開催されました。済州で海に捨てられた4・3犠牲者の遺体は遠く対馬にまで流さていました。漂着した遺体を弔うために地元住民が供養塔を建立し、これをきっかけに詩人の金時鐘さんが呼びかけて慰霊祭が開催されることになりました。

ここでは慰霊祭を伝える記事へのリンクを中心に紹介します。

犠牲者漂着の歴史、日韓継ぐ 韓国・済州島の民衆虐殺、対馬で今年も慰霊祭(朝日新聞大阪本社版2019/09/20) 

70年ほど前、韓国の済州島(チェジュド)で官憲に民衆が虐殺された「4・3事件=キーワード」。犠牲者とみられる無数の遺体が漂着した対馬長崎県)の海辺で29日、日韓の市民が慰霊祭を開く。外交関係が悪化し、韓国側では参加を見合わせる動きがあったが、「こういう時こそ民間交流を絶やしてはならない」と願う日韓の関係者の尽力で実現にこぎ着けた。

呼びかけたのは奈良県生駒市の詩人、金時鐘(キムシジョン)さん(90)。日本が植民地支配した朝鮮で生まれ育ち、1948年4月3日、朝鮮半島の南単独選挙に抗議した済州島民らの蜂起に参加した。官憲に追われる身となり、翌49年に日本へ。金大中(キムデジュン)政権下の98年に約半世紀ぶりに島に帰郷して以来、両親の墓参りや事件の犠牲者の追悼を重ねてきた。

事件前後から朝鮮戦争(50~53年)にかけて、済州島では数万人が虐殺された。金さんの目には当時の光景が焼き付いている。手首をくくられた人々が軍用艇で沖へ運ばれ、海へ投げ落とされた。人々の一部が対馬まで流された、と後に伝え聞いた。

知人の長田勇さん(71)=大阪市生野区=が対馬に足を運び、3年前、事件で漂着したとみられる遺体の供養塔があることを地元の記者から教わった。

供養塔は、対馬市の江藤幸治さん(62)が、対岸の釜山も見渡せる佐護湾の高台に建てていた。2006年、父・光さんから海岸沿いの険しい岩場へ案内された。遺体の埋葬場所だった。70年ほど前、服装や身につけたものから韓国からとみられる遺体が連日のように漂着したこと、火葬して弔ったが追いつかず、浜辺にまとめて埋めたこと……。「このままでは歴史が消えてしまうと、僕に伝えたんでしょう」。父の遺志をくんで、翌07年に供養塔を建て、夫婦で細々と追悼してきた。

金さんは昨年9月、この供養塔のある湾での初めての慰霊祭を呼びかけたが、体調不良で参加できなかった。卒寿を迎えた今年、済州島で4月にあった慰霊祭に参加。ぜひ対馬でも手をあわせたいと願い、今回の慰霊祭の主催者になった。

日韓関係の影響で、韓国からの当初の参加予定者が「延期」を求めるなどしたが、「済州4・3犠牲者遺族会」の宋承文(ソンスンムン)会長(70)が関係者の説得に回った。宋さんは「人権を尊重し、犠牲者を追慕したいという思いをともにする市民の集いが政治関係に揺さぶられてはならない」と話す。

遺族会には今なお犠牲者の遺体を捜し続ける人が少なくなく、一部は対馬まで流されたと信じられているという。数年前、済州島の大学と放送局が潮流を調べ、済州沖の漂流物が対馬に達することを確認した。

今回の慰霊祭で韓国からは宋氏ら15人余りが訪日。日本側とあわせて約60人が参加し、異郷で眠る犠牲者を追悼する。

金さんは語る。「供養塔は、地理的に近い日本と韓国が、海流を通して「4・3」という歴史を共有することを示してもいます。市民の手で歴史を共有する取り組みは今こそ意義深く、必要なものです」

論説委員・中野晃)

◆キーワード

<4・3事件> 韓国、北朝鮮両政府が樹立する前の1948年4月3日、済州島南朝鮮の単独選挙に反対する武装勢力が蜂起。軍や警察の無差別的な鎮圧で大勢の島民が虐殺された。身柄拘束され、朝鮮戦争(50~53年)やその前後に殺害された人も含め、死者は韓国政府系機関の調査で3万人に上るとされ、今なお遺体が見つからない犠牲者が大勢いる。

事件は軍事政権が続いた韓国で長年タブー視されたが、金大中政権が真相究明に着手。盧武鉉大統領が2003年、「国家権力の過ち」を認めて被害者に公式謝罪した。

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日韓市民が合同慰霊祭 済州島虐殺、長崎・対馬で追悼(共同通信2019/09/29)

日韓の市民が対馬で慰霊祭 済州島「4・3事件」(朝日新聞大阪本社版2019/09/30)

約70年前に韓国・済州島(チェジュド)で大勢の民衆が虐殺された「4・3事件」の犠牲者の慰霊祭が29日、国境の海を望む長崎県対馬市の佐護湾で開かれた。日韓関係はこじれているが、参加した日韓の市民約60人は心をあわせて犠牲者を追悼し、痛ましい歴史を共有した。

29日、慰霊祭の参加者は海辺に立つ供養塔に手をあわせた。生前の父から「数百体の遺体を浜辺に埋めた」と聞いた対馬市の江藤幸治さん(62)が2007年、いまは岩に覆われた埋葬地の近くに建てた。

事件の惨状を済州島で目撃し、官憲の弾圧を避けて日本に逃れた詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(90)=奈良県生駒市=が主催者としてあいさつ。「供養塔は死者の慰霊にとどまらず、韓日の民心をほぐす慈しみの塔」と述べた。

韓国からは15人余りが参加。「済州4・3犠牲者遺族会」の宋承文(ソンスンムン)会長(70)は「政治とは離れて、こうした場を来年以降も持ちたい。より多くの人が参加するよう、済州島でも対馬の慰霊祭のことを広めていきたい」と感想を述べた。

(中野晃)

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日本の対馬で「済州4・3慰霊祭」が開かれた理由は(ハンギョレ2019/10/01)

【社説余滴】対馬済州島を結ぶ碑 中野晃(朝日新聞2019/10/13)

国境の海が広がる。

対岸の韓国・釜山(プサン)からわずか50キロ。対馬長崎県)の北端、佐護(さご)湾の海辺に「供養塔」と刻まれた四角い石碑が立つ。

9月の日曜日、日韓の市民約60人が集まり、記者も手をあわせた。韓国の済州島(チェジュド)で約70年前にあった「4・3事件」の犠牲者の冥福を祈るたログイン前の続きめだ。

石碑は、対馬市の江藤幸治(ゆきはる)さん(62)が12年前に建て、追悼を重ねてきた。

その前年、亡父に海岸の岩場に連れ出された。

終戦の数年後、連日のように水死体が漂着、火葬して弔ったが、数が増え、穴を掘って埋葬したという。あわせて数百体に及び、着衣から韓国の人と分かったそうだ。「歴史を伝えた」父は間もなく他界した。

対馬から潮流をさかのぼると、済州島沖に連なる。

1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起。官憲の容赦ない鎮圧が数年間続き、数万の島民が虐殺された。体を縛られて海に投げられた人も大勢おり、対馬にも流れ着いたとみられている。

「済州4・3犠牲者遺族会」の宋承文(ソンスンムン)会長(70)は約20年前に対馬を訪れ、漂着した遺体を取材した地元紙の記者に会った。数珠つなぎにされ、柿渋で染めた済州島特有の着衣だったと聞き、目が潤んだ。

いにしえから朝鮮半島との交易の窓口となり、今は釜山と航路で結ばれる対馬も、こじれる日韓関係のあおりで韓国からの観光客の姿はまばらだった。

慰霊祭は、国境をこえた関係者の尽力で実現した。宋さんは「政治と離れて、対馬でも慰霊祭が続き、痛ましい歴史が多くの人に伝わって欲しい」と話した。

開催を呼びかけたのは奈良県に住む詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(90)。4・3事件で官憲に追われ、生きるため、済州島から大阪へ逃れた。

日本が支配した植民地朝鮮で生まれ育ち、解放後は南北分断の憂き目を味わった金さんは「歴史の共有」が日韓関係をほぐす鍵と説く。密接に絡んでいながら日本で知られていないことがあまりにも多いと嘆く。

金さんは「韓日の民心をほぐす慈しみの塔」を建てた江藤さんの手を握り、頭を下げた。心をひとつにする実直な取りくみの大切さを、国境の島で学んだ。

(なかのあきら 社会社説担当)

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暗闇の光、日本・対馬4・3慰霊祭(済州の声)

(1) 時代と国籍を越えて…済州4・3の霊を見守った日本人たち 父の遺志を継ぎ慰霊塔を守った江藤幸治、「漢拏山の会」の長田勇(2019/09/30)

(2) 恨(ハン)を抱いた海の道に両手を合わせた韓国・日本市民 第3回4・3犠牲者対馬慰霊祭フォトニュース(2019/09/30)

(3) 異邦人の真心、4・3遺族会と平和財団が応える番 紆余曲折の慰霊祭、「冷淡」と感じられないように(2019/10/03)

(4) 「しかばねで対馬に漂着した済州人たちにとって私は卑怯な人間」 在日済州人金時鐘詩人「対馬4・3慰霊祭、韓日市民がひとつになる契機」(2019/10/04)

 

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