済州四・三 73周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

2019年4・3追念式(済州)参加の旅を終えて

済州四・三犠牲者慰霊祭実行委員会主催「慰霊の旅」を終えて 梁優子

今年も、済州四・三犠牲者慰霊祭実行委員会として「慰霊の旅」に取り組みました。参加者は、実行委員も含め12名。年齢は4歳から70代までと幅広く、親子やご夫妻で参加されている方もおられました。現地解説は、4・3研究前所長金昌厚先生にお世話になりました。

初日4月1日は、まずは、済州市内にある観徳亭へ。ここは済州4・3の発火点となった場所です。午後6時より済州KALホテルで開催された第三回済州平和授賞式に参席しました。今年の受賞者は「順伊おばさん」の著者である玄基栄氏とベトナムの人権活動家Nguyen Thi Thanh氏とNguyen Thi Thanh氏(お二人は同姓同名)でした。ベトナム戦争時韓国軍が犯した過ちを告発する二人のベトナム女性人権活動家が平和賞を受賞されたことは、感慨深かったです。女性の人権確立と平和の希求とは両輪であることを、済州から発信した瞬間でした。

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観徳亭前広場で金昌厚先生の解説を聞いている

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4・3平和賞受賞者を囲んで

二日目4月2日、アルコール工場跡地で開催された「済州四・三事件1950年予備検索犠牲者済州・対馬慰霊祭」に参席しました。この慰霊祭の主旨は、「1950年8月4日、済州港近くの旧酒精工場に拘束されていた『予備検束者約500名』が済州港沖で軍と警察によって銃殺され海中投棄された。犠牲者は対馬海流に流され対馬の佐護湾に数百体が漂着した。犠牲者の恨みを解き、魂を鎮める」ことです。

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主催者の一人である金時鐘さんの挨拶

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クッの様子

その後平和公園へ移動、遺族会祭祀に参加し、飲福を頂きました。位牌奉安所、行方不明者の標石、発掘遺体奉安所、平和記念館を見学しました。済州市庁前の開催されている前夜祭会場へ移動。夕食は、平和財団より招待をうけました。 

三日目4月3日、第71周年追年式に参加しました。強いられた祖母の沈黙が、その孫によって破られていく事を体感しました。「トラウマの癒しと次世代への継承」が追年式全体のメッセージだと受け取りました。それは、隠されている加害者を浮き彫りにしていくことにもつながるのだろうと感じました。午後からは、済州の南西部へ移動。アルトゥル飛行場跡を見学し、ソダオルム虐殺現場、百祖一孫碑で黙祷・献花・焼香をしました。実行委員の李鐡さんが「親子で酒を飲んでも、『政治』の話をするな。」と釘をさされたことがあると語って下さいました。その言葉に、次世代の私には想像が及ばない抑圧の片鱗を感じました。そして、「私の父親はなぜ何も語らなかったのだろうか。」という思いを、更に強くしました。

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ソダオルム虐殺現場で献花

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百祖一孫碑前で解説を聞く

四日目4月4日は済州市朝天邑北村里を訪れました。この地は、抗日活動家が多く、解放後は人民委員会を中心に自治組織が活性化していた所です。虐殺現場、順伊おばさんの碑を見学し、犠牲者刻銘碑に献花・焼香をしました。その後、ノブンスンイ4・3記念館に移動し、金昌厚先生の解説を聞きました。私は、この場に立つと、書くこと、語ることが命がけであったこと、そして、語り継ぐことの意味を繰り返し問われていると感じます。昼食は、実行委員の金文男さんの親戚の方のお店でおいしいオギョッサルを頂きました。参加者一人一人が旅の感想を述べ、慰霊の旅を終えました。

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4・3平和公園
参加記(1) 林知香

私は長年韓国の方たちと親しく過ごしてきたにもかかわらず、4・3について知らずにいました。今回は慰霊するとともに、現地で学ばせてもらいたいという気持から、息子を連れて初めて旅に参加しました。

島を巡るなかで、済州と日本のつながりを知ることとなりました。4・3の起こる素地をたどれば、日本の植民地支配に端緒を求めることができるでしょう。その時代に済州と日本を行き来した血気盛んな若者たちの存在や、4・3の最中に日本へ逃れた人々、当時の政府や軍が日本の置き土産となった制度や慣習を使って島民の虐殺を正当化したことなど、済州と日本の歴史は無縁ではありません。それどころか、在日韓国・朝鮮の人々の歩みを見るとき、それは日本史の一部であるといっても過言ではないでしょう。また、4・3の実態を知ることで、今の韓国の政治が自ずと見えてきます。4・3を過去の出来事としてではなく、自分とのつながりの中に見ていき、どのように周囲と共有していけばよいのか。今後の私の課題です。

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百祖一孫の地

今回引率してくださった大阪の遺族会のみなさんや、済州4・3研究所の先生による、長年の調査や慰霊にかける思いと努力には本当に頭が下がります。事件から71年目の今年、警察と軍からの謝罪・遺憾表明を得られたのは一つの結実です。その一報に、ツアーの車中では思わず拍手が起こりました。また、済州とは直接縁のない私たちを旅に参加させてくださる懐の深さにも、心から感謝申し上げます。参加者は私の他にも日本の方たちがいらしたのですが、4・3への強い関心のみならず、自らの感じるさまざまな疑問を社会的活動に還元していらっしゃるようでした。翻って私は、これまで会社生活に汲々とするばかりで、社会とつながってこなかったことが悔やまれます。参加者のみなさんからも刺激を受けた旅となりました。

最後に、済州島は美しい島でした。虐殺の現場となった場所を巡りましたが、西帰浦市にあるソダッオルムも、済州市の北村小学校も、方々に菜の花が咲き乱れ、向こうには青い海の臨める、息を飲むほどの美しい所でした。もう決して美しい島を悲劇で覆ってはなりません。

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4・3平和記念館
参加記(2) 李恵順

今回初めて済州4・3慰霊の旅に参加した。

きっかけは以前の仕事(朝鮮学校教員)をしていた時に出会った済州出身のハルモニムとの出会いからだ。担任した児童のハルモニムであった彼女はもう長い事日本で暮らしておられたが一切日本語を使わず、独特な済州の言葉しか話されない。料理が上手で歌がとても上手なハルモニムとの過ごしは当時まだ若かった私にとって全羅道出身のアボジの次にコヒャンを肌で感じる素晴らしい時間だった。

ハルモニムは済州での暮らしについて私が聞こうとするたびに「遠い昔の事でもう忘れた。」と、決して話してはくださらなかった。

そのハルモニが心を患って亡くなったことを聞いたのは担任を外れ、既に高校生になっていた生徒との再会の時だった。彼女からハルモニは済州4・3事件に巻き込まれその後夫となる青年と日本に渡ってきたことをその時初めて聞いた。ちょうど私が〈順伊おばさん〉を読み終えた頃だった。

〔…家族が多数殺されたにもかかわらずかろうじて生き残った人は精神的に大きな傷を負っていた…日に怯えた者は火搔きをみても怯え、遠くで軍人や巡査の影がちらついただけでも怯え…順伊おばさんは1ヶ月半前に死んだのではなく、既に30年前のその日、その畑で死んだのではないか〕…ハルモニムの病死を知った後、始めて私は済州4・3事件に向き合いたいと、日本に生まれ育ちはしたが、半分日本人の私ではあるが自身の国のルーツを、真実を知ることは教師として、人として、親として、そしてアボジを継ぐ自身のためにも必要だと長い事思って来た。

しかし朝鮮籍を持ち、亡くなった妹の忘れ形見が朝鮮に居てそこには行かなければならない者として思いはあっても今まで済州島に行く事が叶わなかった。今回の誘いを受けた時この機会に行かなければ時を逸するとの思いが先立ち、矢も盾もたまらず申し込んだ。

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4・3平和賞授賞式で受賞者の作家玄基榮氏らと

初日に4・3事件の契機となった観徳亭にて説明を受け、4・3平和賞授賞式に参加し玄基栄氏のメッセージを直接聴き、酒清工場跡地での慰霊祭では金時鐘氏による当時の話を聴きクッに参加。そして、遺族会による慰霊祭に参加し平和公園と記念館を回った。

石碑のモニュメントに書かれた、監獄に連行される民の書いた手紙に、生きた証が抹殺されてしまった幼子たちの死を知り愕然とした。今回の慰霊の旅で、かけがえのない3万を超す命が理不尽に、恐怖の中で奪われ、同時に奪う側に回らずを得なかった罪なき人々の凄惨な心を思うと共に、女性たちの死や虐待と、多くの子どもの死は私には特に身に迫るものがあった。記念館で目にしたおびただしい壮絶な記録やモニュメント、モスルポのアルトゥル飛行場跡地、プクチョンの子どもたちの墓…そのすべてが胸に迫り今も思うだけで胸が張り裂けるような思いに駆られる。

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北村里慰霊碑

知る事。知ってそこから思い、感じ、自分が今後どのように生き、何をし、活きるべきかを今回の慰霊の旅で感じられた。

たった一度、走るように過っただけでは実際は何も分からない事と変わらない事も思いつつ、これから機会を作って改めて行って観て、感じてこなければならないと今自分に課している。

それが異国で心を病み亡くなられたハルモニムへの私が出来る供養にもなるかと。

絵画、乳飲み子記念館の女性たちへの虐待・虐殺のモニュメントをしっかり瞼に刻んで…

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4・3平和記念館
4・3事件予備検束犠牲者のため、済州と日本の慰霊の心をひとつに(済州の声)

済州4・3漢拏山の会と済州チルモリ堂ヨンドゥンクッ保存会、2日予備検束犠牲者慰霊祭 共同開催

「71周年済州4・3事件予備検束犠牲者慰霊祭」が2日午前9時から、済州市健入洞にある旧アルコール工場跡地で開催された。

昨年に続き二回目となる今回の慰霊祭は、むごたらしい4・3の時を経て、国家によって無念にも命を落とした予備検束犠牲者らを追慕し、その魂を鎮める場として設けられた。

今回の慰霊祭は、日本において主に活動している済州4・3漢拏山の会と、済州チルモリ堂ヨンドゥンクッ保存会が共同で主管する行事でもある。また、韓国の文化財庁、国立無形遺産院、韓国文化財財団、済州4・3平和財団と済州4・3犠牲者遺族会が後援団体として名を連ねた。

旧アルコール工場跡地は、4・3事件当時に多くの道民らが容共という容疑をかけられて、拷問を受け集団収容された血なまぐさい場所である。収容された人の中には、近隣にあった済州港から韓国本土の刑務所に連行されていった人もいる。その後、朝鮮戦争が勃発するや、予備検束者らが集団収容され、埠頭から海に水葬(殺害)されるなどの痛ましい歴史が刻まれている。

朝鮮戦争の時期には、予備検束犠牲者のものと推定される数百体の死体が日本の対馬の海岸まで流れ着いた。当時、江藤光氏という日本人により、遺体は手厚く埋葬された。その子である江藤幸治氏は父親の遺志を継ぎ、2007年5月に「供養塔」を建立し、以来毎年、慰霊祭を執り行っている。済州4・3漢拏山の会は2014年と2015年に供養塔で全体の4・3犠牲者のための慰霊祭を執り行なった。昨年と今年には、済州島対馬の二か所で予備検束犠牲者のための慰霊祭を行った。

この日、現場には日本から訪れた漢拏山の会の40余名メンバーと、済州島出身で4・3事件当時、日本に逃れた、金時鐘詩人(第42回大佛次郎賞受賞者)も共に参席した。また、予備検束で家族と離れ離れとなった遺族と、4・3犠牲者遺族会の人士らも参加した。

1935年生まれのキム・ウルセン氏(済州市禾北)は、自身が14歳の時に父親が済州警察署から大邱刑務所へと連行される瞬間を生々しく記憶している。彼の父親である故キム・ギョンヘン氏は、大邱刑務所に収監された後、予備検束で銃殺されたという。現在も毎年4月には慰霊のために、家族は大邱に行っている。

キム・ウルセン氏は、「父がなぜ死んだのかという理由ははっきりとわかっている。李承晩大統領のせいである。戦争が起こったなら、何の罪もなく収監された済州道民らを守るため、故郷に送らねばならないはずなのに、消せと指示したのではないか。」と声を振り絞った。

長田勇4・3済州漢拏山の会顧問は、「たとえ国境はこえても日本で慰霊祭を行ってきたが(人の道理として)、このような形でもやらなければならないということではじめた。来年には済州において、行方不明者までも追慕する場として拡大していきたい」と述べた。

今年の予備検束犠牲者慰霊祭は、済州チルモリ堂ヨンドゥンクッ保存会の協力の下、文化財庁の「無形文化財伝承者主管伝承活動支援事業」として執り行われた。

ヤン・ヒョクチュン済州チルモリ堂ヨンドゥンクッ保存会事務局長は、「ヨンドゥンクッ保存会が対馬に渡りクッをする中で、済州4・3漢拏山の会と出会った。4・3犠牲者のための慰霊のクッは済州道民がすべきことだ。この間、日本の方々が費用のすべてを負担しつつ、心をこめて隣国の痛みを共感してくれたことは本当に感謝したい」と述べ、「このような話を聞いたヨンドゥンクッ保存会の会員は心を一つにし、昨年から支援事業として進めた。これからもしっかりと漢拏山の会とともに行う」と述べた。

ハン・ヒョンジン記者
(岡崎享子訳)

済州4・3予備検束犠牲者慰霊祭 韓日合同で、済州市旧酒精工場敷地で(コリアニュース)

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