「済州4・3漢拏山の会」が第4回済州平和賞特別賞受賞(梁優子)
済州4・3平和財団は、人類の恒久平和を求め、済州4・3の完全解決にむけ尽力する人々の功績を称える済州4・3平和賞を設けています。2021年11月30日、「済州4・3漢拏山の会」が第4回済州平和賞特別賞を受賞しました。もう一つの現場である大阪で、全ての4・3犠牲者の名誉回復を求め、犠牲者を追悼し、4・3の記憶を継承する者として、心より「おめでとうございます」と申し上げます。以下、受賞の功績と長田勇さん(済州4・3漢拏山の会顧問)の受賞挨拶をご紹介いたします。
第4回済州平和賞特別賞受賞の功績
「済州4・3事件を学び、共に行動する集い」(略称、「済州4・3漢拏山の会」)は、日本の西日本の人たちによって、自主的に結成された純粋に民間の市民団体である。沖縄戦を考える人々の集まりである「魂魄の会」が2006年に結成されており、済州と沖縄と痛ましい歴史を共有しているので、連携して歴史的課題を解決し、平和を守ろうという趣旨で2008年11月に結成された。現在、海勢頭豊会長(平和活動家、音楽家)と長田勇顧問を中心に約130名の会員が活動している。
「済州4・3漢拏山」は、2008年に「済州4・3 60周年慰霊祭」に会員47名が初参加して以来、毎年4月3日には会員が自費で、済州を訪問しているが、その際には事前に、済州4・3に関する勉強が必要とされている。
「済州4・3 60周年慰霊祭の現場での感激は、本で読んでいた4・3とは全然違いました。1万人の遺族が慰霊祭に参加した光景は、あまりにも大きな衝撃でした。日本に戻ってから4・3事件についてどんな立場で接近していくべきか悩みはじめました。そしてたどり着いた結論が、「4・3事件から学んで、日本で行動する」ということでした。こうして「済州4・3漢拏山の会が誕生したのです」と、顧問の長田さんは、会の結成の経緯について語る。
「漢拏山の会」の会員たちは4・3慰霊祭が終わると、必ず顕義合葬墓などの4・3遺跡地も訪れて慰霊する。4・3前夜祭、市街でのクッ(巫俗の儀礼)、その他の文化行事にも必ず参加する。4・3前夜祭のフィナーレの舞台での「漢拏山の会」の那良伊千鳥副会長が作曲した「春うりずん~四・三済州島」と海勢頭豊作曲の「ハルラ山」の合唱には、盛大な拍手が尽きない。
2018年の4・3 70周年追悼前夜祭では、海勢頭豊会長が当時の4・3遺族会のヤン・ユンギョン会長、台湾の2・28事件記念基金会の薛化元理事長と一緒に「東アジアの平和のためのメッセージ」を朗読したことが記憶に鮮やかである。
「済州4・3漢拏山の会」は、済州4・3と沖縄との平和を目指した連帯のための自発的な民間交流の役割も着実に続けている。沖縄戦下での虐殺現場に居合せた朝鮮人の強制徴用労働者や朝鮮人慰安婦についての真相調査や、それらを含んだ沖縄戦犠牲者を追悼する慰霊祭を沖縄で開催するなど、今や厳しさを増している日本現地の妨害の圧力にも屈せず、活動を粘り強く続けている。2010年には4・3遺族会関係者を沖縄に招待し、沖縄戦時に米軍が初上陸した阿嘉島で「阿嘉島平和祭」も開いた。2008年・2009年・2011年・2012年には、沖縄那覇市で「済州4・3を考える沖縄集会」も開催した。2013年・2014年・2015年には、沖縄・那覇から飛行機でさらに2時間もかかる日本最西端の与那国島で、朝鮮人慰安婦のために慰霊祭と平和を祈願するアリラン音楽祭を開いた。この慰霊祭には、済州の詩人の許栄善氏、名唱として名高い安福子氏その他、済州の芸術家らも参加して、韓国と日本、済州の連帯感を高めた。厳しい日韓関係の中でも、市民が平和の道を切り開いていく道先案内人の役割を果たしている。
「済州4・3漢拏山の会」の長田顧問は、2014年からは4・3の行方不明者たちのための追慕事業も続けている。2014年には対馬の峰町青海地域で「第1回済州島4・3事件犠牲者対馬・済州慰霊祭」を現地の住民と実行委員会をつくり、在日の詩人 金時鐘が委員長として開催した。峰町青海地域は4・3とそれに続く韓国戦争前後に海中に投げ捨てられて虐殺され、対馬に流されてきた犠牲者の死体が発見された場所である。2016年に対馬の北側「佐護湾」に韓国人水葬犠牲者の供養塔を建て、英霊を追悼してきた江藤幸治氏の話を聞いた長田顧問と金時鐘氏は「漢拏山の会」の会員たちと伴に2018年・2019年、対馬の佐護湾と済州の酒精工場の跡地で「済州4・3事件犠牲者対馬・済州慰霊祭」を開催してきた。「漢拏山の会」は、「対馬と済州を結ぶ4・3事件慰霊祭は死者たちがそうだったように、日韓両国の民衆が国境を越えて成し遂げていくのが運命であり、平和と友愛の精神で一つになった日韓の民衆が慰霊祭を開催する」と、所懐を述べた。
その他にも「済州4・3漢拏山の会」は、2009年からは毎年、漢拏山の会の会報「チェジュササム」を1,500部も発行することで日本に4・3についての情報を発信するなど、自発的に4・3の世界化の努力をしている。特に、強制徴用されて沖縄で犠牲になったり故郷に帰れなかった韓国人のためのアルバムを制作したり、4・3の痛みを表現した漢拏山の歌も作り、歌っている。さらに、済州4・3平和財団が発行する機関誌「4・3と平和」の日本語版の制作も、「漢拏山の会」の長田顧問の企画によって実現したものなのである。
「済州4・3漢拏山の会」の4・3参加は、平和と人権を中心とする国際連帯と4・3の大衆化・世界化を持続的に実践することで具現してきたことにその意義がある。特に、他国の民間の市民団体の自主的な参加、そして2008年の結成以来、13年にわたって実践的に活動している「漢拏山の会」の4・3に対する真正性を高く評価する。
長田勇漢拏山の会顧問受賞挨拶
1. 「日本で行動する」ことの意味
「済州4・3平和賞特別賞」心より感謝いたします。「団体」の授与は初めてだそうで、なおさら身が引き締まる思いです。
私が生まれて初めて済州島を訪れたのは、2008年60周年慰霊祭でした。海勢頭豊さん那良伊千鳥さんら47名で済州国際空港に降り立ちましたが、そこから海勢頭さんと千鳥さんはどこかへ連れていかれました。後で分かったことですが、そこは酒精工場跡地で、〝前祭礼”、“追慕式”が行われていました。済州島での始まりが酒精工場跡地での〝慰霊祭″であったことは、「漢拏山の会」を運命づけていると思います。
1回行くだけではすぐ忘れてしまいます。毎年参加し「済州4・3」から学ばなければならないと思い、「漢拏山の会」を参加者で作りました。また学んだことを生かすことが大事で、「行動する会」にする必要がありました。考えたり学んだだけでは、そこに立ち止まってしまうからです。そこで早速、沖縄で「済州4・3を考える沖縄集会」を、2008年・2009年・2011年・2012年と計4回開催しました。
「運命の大方は人との邂逅で現れるもののようです」(金時鐘の言葉)
2008年4月に済州島で出会った安福子さんと沖縄で再会しました。2009年阿嘉島で安福子さんは「アリラン峠」で「アリラン」を歌いました。これが2010年「第1回阿嘉島アリラン平和音楽祭」の開催へと繋がっていきます。
繋がりで言いますと、2011年・2012年の「沖縄集会」で金時鐘さんの話しを聞けたことです。決定的なことは、まさに「済州4・3」を体験された話だったことです。アリアリと当時の情景が浮かんできました。初めて「済州4・3」を体感することができました。金時鐘さんは2012年阿嘉島の「朝鮮人従軍慰安婦慰霊祭」に参加され、このことが対馬で慰霊祭の開催へと繋がっていくことになります。日本で行動すると言ってはみたものの、何か「考える集会」では物足りなさがありました。何か他にあるはずだと模索は続きました。そして2013年の暮れも押し迫ったある日、金時鐘さんから突然「対馬で慰霊祭がしたい」と言われました。慰霊祭は遺族がするものだと思い込んでいた私は、その意味が飲み込めません。「誰がやるんですか?」思わず聞き返しました。金時鐘さんはその時「長田は慰霊祭屋や」と言いました。この時対馬で4・3慰霊祭をやることが決まったのです。「日本で行動する」ことの意味がやっと分かりました。
2. 「漢拏山の会」の課題
2008年の酒精工場跡地での慰霊祭で始まり、2014年対馬の「第1回4・3慰霊祭」で、「日本で行動する」道筋が見えてきました。それは対馬の島居さん江藤さんとの巡り会いでもたらされたものでした。「漢拏山の会」の課題は、対馬と済州島を結ぶ「4・3慰霊祭」を続けていくことです。さらに広げていくことです。そのためには「漢拏山の会」という枠を取り外し、人と人との国境を越えた繫がりを求めていかなければなりません。「対馬・済州慰霊祭」は「漢拏山の会」の中から生まれ成長してきました。これからは「漢拏山の会」をこえていくこと、これが「漢拏山の会」の課題だと思います。
「済州4・3平和賞特別賞」をいただいて、以上のことを思い出し振り返り、これからの思いを明らかにして、お礼の挨拶といたします。
金時鐘さんの祝賀メッセージ(動画)