済州四・三 76周年大阪慰霊祭

約3万人が亡くなったと言われる済州4・3事件。済州出身者が多く住む大阪では、毎年犠牲者慰霊祭を開催しています。

日本で四・三生存受刑者に会う(文京洙)

日本で四・三生存受刑者に会う 文京洙

さる2019年1月に再審請求で公訴棄却の勝訴判決を勝ち取った4・3生存受刑者18名に続き、第2次として6名が再審請求を準備しています。そのうちのお一人が東京に居住しておられることが明らかになりました。以下は、ご本人に面談した文京洙・立命館大特任教授による解説です。2019年5月20日付『済州新報』コラム「済州時論」に掲載された記事の日本語版を、著者よりご提供いただきました。ありがとうございました。

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すでに各種メディアを通じて報道されていたように、去る1月、済州四・三当時、実施されたものとされる軍法会議の受刑者18人の再審請求に対して、済州地方法院は事実上の無罪といえる公訴棄却の判決を言い渡した。検察がこの判決に対する控訴を断念したことから、一審法院の判決が確定し、再審を請求した皆さんは70年ぶりに前科者の汚名をそそぐことが出来た。

1999年、金大中政府の時代に発掘された「受刑者名簿」によって、1948年の12月と1949年の6月~7月の二次にわたって、戒厳令下での“内乱罪”や国防警備法によって2530人が死刑を含む有罪判決を受けたことが明らかになっている。だが、戒厳令も国防警備法も法的根拠が希薄なうえに軍法会議自体が正常的な手続きを欠く「虚構の裁判」であったといわれる(金鍾旻「済州四・三軍法会議再審事件」〔SLOW NEWS〕)

四・三生存受刑者の再審請求を推進してきた四・三道民連帯の梁東允代表によると、勝訴した18人の受刑者は国家を相手どった刑事補償請求の手続きをすすめると同時に6月には6人の四・三生存受刑者による2次の再審請求を準備しているという。そのうち一人は日本の東京に娘と暮らしていることが、済州に住む息子さんの申告によって明らかとなっている。

筆者は、梁東允代表の要請を受けて、娘さんと連絡を取って今月の初めにこの生存受刑者のお宅を訪ねた。1926年生まれのS氏は四・三当時済州市で拘束され懲役1年の刑で木浦の刑務所に収監され、出獄後海兵隊に入隊し仁川上陸などに参加して除隊後はソウルでバス会社に働いたのち、日本にわたっている。事情説明や意思確認以外に短い時間であるが言葉を交わしたが、S氏は四・三当時連行され収監されたことよりも仁川上陸作戦などに参戦して沢山の同僚を失った経験を主に語った。

S氏の存在は今一度四・三と在日同胞社会との関連を想起させずにいられない。四・三当時、難を避けてたくさんの済州島民が日本にわたってきたことはよく知られている。現行四・三特別法が“大韓民国在外公館”に四・三犠牲者の申告書を設置するという条項(第10条)を規定しているのもそういう済州四・三の日本との関係をめぐる特殊な事情を反映している。

その間、日本に居住する四・三犠牲者遺族の40人余りが犠牲者申告をして認定された犠牲者数は80人ほどであるが、ここには受刑者はいない。これまで四・三と在日同胞との関係が論じられるときは主として1947年~1949年の時期の密航者(一万人以上がGHQの監視網を突き破って密航に成功したと推定される)が言及されてきたが、事実は済州島から日本への密航の太い流れは、50年代から60年代、ひいては韓日修交以後の70年代にも続いた。

59年の新聞報道(朝日新聞1959年12月15日)によると「韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある」としている。日本法務省の資料(法務省出入国管理局『出入国管理――その現況と展望』など)から推定すると60年代までは毎年数千人規模、70年代でも毎年数百人規模の済州人が密航に成功して日本にわたってきたものと考えられる。

S氏も、このよう50年代以後に日本にわたってきた沢山の済州人の一人であり、四・三受刑者が出獄後に韓国社会で経なければならなかった差別や偏見を思うとS氏以外にも日本にわたってきた受刑者が少なくないものと考えられる。今回の勝訴とS氏の再審請求が、日本でのそうした埋もれた犠牲者や遺族を探し出し、四・三のもう一つの真実を明らかにする契機となればと願っている。

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