最近、J・マーク・ラムザイヤー米ハーバード大教授の発表した論文が、朝鮮人女性は自発的な「契約」によって「慰安婦」となり、その動員は朝鮮人業者によるものなので、日本政府や日本軍に責任がないと主張して、国際的に強い批判を浴びています。
ところが、ラムザイヤー教授は他の論文で、在日朝鮮人、被差別部落出身者、沖縄の人々に対しても差別意識と偏見に満ちた見解を述べていたことが明らかになってきました。
済州4・3に関連しても、29万人であった済州島の人口が1957年までに3万人に減少し、この時、日本に逃れた共産主義者が在日朝鮮人社会を支配したなどと、事実誤認に基づく主張を展開しています。
以下では、ラムザイヤー論文の内容を紹介したうえで、その問題点を指摘します。なお本稿は、実行委員会メンバーの藤永壯が執筆し、実行委員会の許可を得て掲載したものですが、文責は全面的に藤永にあることをおことわりしておきます。(記述は2021年3月16日現在の状況にもとづいています。)
対象論文
上記論文pp.20-21より引用する。
The political tensions turned to war in 1948. The fighting started on the Jeju island from which so many Japan-resident Koreans had come. The anti-Japanese movement there had already turned far-left before the war (Fujinaga 1999). On April 3, 1948, Jeju communists launched what they hoped would become a people’s revolution (Hyon 2016, 23–26). They attacked 12 police stations, killed several dozen policemen, and then turned to families they thought sympathetic to the government (Hyon 2016, 12).
The South Korean government responded brutally. Over the course of the next year, according to modern accounts it slaughtered anyone on the island suspected of communist ties. Estimates of the number it killed range from 15,000 to 60,000—this on an island with a population of only 290,000.14 Almost immediately, however, surviving Jeju leftists began to leave surreptitiously for Japan. Given that they migrated illegality, the number is hard to know. But by 1957, barely 30,000 people still lived on the island (Zaishuto 2005).
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14 Hyon (2016, 67), Choe (2019), and Ghosts (2000).
【日本語仮訳】
政治的緊張は1948年に戦争へ至った。戦闘は多くの在日朝鮮人が帰郷した済州島で始まった。済州島での反日運動はすでに戦前、極左へ転じていた(藤永1999)。1948年4月3日、済州の共産主義者たちは、人民革命になるようにと望んだことを開始した(玄2016、23–26)。彼らは12の警察署を攻撃して数十人の警官を殺害し、それから政府に好意的と見なした家族のもとへと向かった(玄2016、12)。
南朝鮮政府は残酷に対応した。最近の報告によれば、翌年までに南朝鮮政府は共産主義と結びついていると疑われた島の人間をみな虐殺した。殺害した人数の推定値は15,000人から60,000人の範囲であり、これは人口が29万人しかいない島でのことである14。しかしほとんど時を措かずに、生き残った済州の左翼たちは密かに日本へ向けて出発しはじめた。彼らが不法に移動したことを考えると、その数を知るのは難しい。だが1957年までに、かろうじて3万人だけが島で暮らすようになっていたのである(済州島2005)。
なお、引用文中で典拠となっている文献は以下の通りである。
Choe, S-H. (2019). Memories of Massacres were long suppressed here. Tourists now retrace the atrocities. New York Times. Retrieved May 28, 2019.
Ghosts of Jeju. (2000). Newsweek. Retrieved June 18, 2000.
Hyon, G. (2016). Shima no hanran, 1948 nen 4 gatsu 3 ka [Rebelliion on the Island, April 3, 1948]. Tokyo: Dojidai sha.(玄吉彦『島の反乱、一九四八年四月三日 済州四・三事件の真実』同時代社、2016年。)
コメント
本稿は、済州4・3による虐殺や日本への移動により、29万人であった済州島人口が1957年までに3万人に減少したという信じられない誤記を行っている。済州4・3の犠牲者が韓国政府の公式見解で2万5千人~3万人と推算されていること(『済州4・3事件真相調査報告書〈日本語版〉』済州4・3平和財団、2014年、pp.373-377)を、済州島の人口数と誤解したものではないだろうか。ラムザイヤー論文の出典は「Zaishuto 2005」という執筆者不明の偏見に満ちたブログであり、ウィキペディア日本語版の「済州島四・三事件」の誤記を書き写したものである。さらにウィキペディアの誤記の根拠となったのは、すでに廃校となった大学の図書館のニュースレターであり、もはやネット上で読むことはできない。
ちなみに済州道の人口は、前掲『済州4・3事件真相調査報告書〈日本語版〉』p.73によれば、1944年(当時は全羅南道済州島)219,548人、1946年276,148人、1947年275,899人、1948年281,000人、ネット上ですぐに探し出せる韓国政府の公式統計국가통계포털(총조사인구 各年版)によれば、1949年254,589人、1955年288,928人、1960年281,663人となっている[韓国KBSニュースの報道によれば、1957年の済州道人口は、258,961人となっている。文末の「2021.4.17追記」を参照]。
この数値上の誤記はたんなる確認ミスでは済まされない。ラムザイヤー氏は項目をまたいで、この叙述の直後に「李承晩政権下の韓国から避難した共産主義者たちは、すぐに在日朝鮮人の中で最も貧しく弱い人々を支配した。」(The communist refugees from Syngman Rhee’s South Korea soon took control over the most destitute and vulnerable of the Japan-resident Koreans.)*と述べているからである[文末の「2021.3.18追記」を参照]。これは重大な事実誤認であるが、上述の誤記は、在日朝鮮人社会とその歴史に対するラムザイヤー氏の歪んだ理解の証拠として提示されているのである。
なお、ラムザイヤー論文が根拠としている藤永の論考についての理解は読者に委ねるしかないが、著者としては、はなはだ心外な紹介の仕方である。以下、少し長くなるが、当該拙稿の結論部分から一部を引用する(p.83)。
済州島における「文化運動」団体とその構成員の動向を主たる分析の対象とした本稿では、この運動に内在していたさまざまな方向性と、実際にそれが分化していく過程を意識的に追跡してみた。地域有力者が主導する「文化運動」の改良主義的性格は、その内部に批判勢力を胚胎させ、1920年代半ば以降は、この批判勢力を中心に形成された青年社会主義者の一団が、済州島の民族解放運動をリードする存在となる。
しかし「文化運動」は、決して社会主義運動だけに収斂されたわけではなかった。本稿では、植民地権力と関係を結びつつ企業経営を推進した金根蓍などの実業家の動きや、改良主義的範疇にとどまった青年会の活動を紹介したが、これ以外にも、社会主義運動とは一線を画しながらも植民地権力に非妥協的な立場をとる民族主義者が、相当数存在したものと思われる。[中略]ただし植民地期を通じて、社会主義運動団体に比肩する民族主義系列の結社が済州島で組織されることはなかった。全般的に見て、済州島の民族解放運動においては、ほとんどイデオロギー対立は存在しなかったと言えるのである。[中略]
1928年の第4次朝鮮共産党事件によって、済州島における共産党と高麗共産青年会のヤチェーィカは解体を余儀なくされたが、すでに社会主義思想は青年たちに根を下ろしており、青年運動と学生運動は以前にもまして活発な様相を呈していく。その後1931年に朝鮮共産党済州島ヤチェーィカは再建されたが、潜嫂闘争関係者への捜査がきっかけとなって、済州島の社会主義運動は1932年に大弾圧を受ける。このいわゆる「済州島ヤチェーィカ事件」直後から、検挙を免れた活動家により赤色農民組合運動が展開されるが、この動きも1934年の弾圧で終焉を迎えることになる。
解放後の民衆運動勢力は、こうした運動に参加した人々に、植民地期には組織化されることのなかった民族主義者が加わり、一般大衆がこれを支持することによって形成されたものと言えるだろう。冒頭で指摘した済州島人民委員会の「穏健さ」「強力さ」は、先に示した植民地期・済州島の民族解放運動の特徴に由来するものと考えられるが、この点は本稿が扱うべき領域をはるかに越えるテーマであり、ここでは展望だけにとどめたい。
済州道人口の誤記については、デイビッド・マクニール氏とテッサ・モリス=スズキ氏がすでに指摘している(David McNeill and Tessa Morris Suzuki, “Bad History on the Comfort Women”, JAPAN Forward, March 4, 2021)。両氏によれば、掲載予定誌のEuropean Journal of Law and Economicsは、この記事に関する「懸念の声明」(statement of concern)を発表し、掲載を再検討しているとのことである。
[2021.3.18追記]
* これに続く箇所は以下のようになっている。
The Japan-resident Koreans constituted a group with very low levels of social capital—and with very low levels of the information and control over group members that they would need to stop any self-appointed leaders. The communist refugees took over the group, and turned it to their own political agenda. They did so violently, and in a way that generated massive Japanese hostility.
《日本語仮訳》
在日朝鮮人は、社会的資本の水準が非常に低い集団を構成していた―その集団は、自薦の指導者たちを制止する必要があったはずの集団構成員に対する情報と統制の水準が非常に低かった。共産主義者の避難民が集団を引き継ぎ、そして彼ら自身の政治的アジェンダへと集団の方向を変えた。彼らは実に手荒に、そして多数の日本人の敵意を生むような方法でそれを行った。
[2021.4.17追記]
ラムザイヤー論文の虚偽を検証したKBSニュース「『朝鮮人は犯罪集団』…ラムザイヤー論文は『ヘイト百貨店』」(2021/04/13)によれば、1957年の済州道人口は、258,961人となっている。